倉岳町浦地区(地図はこちら)は大雑把に言うと県道59号線沿いの集落と、干拓地で海に接したところはほんのわずか。過疎化が進む天草市にあっても人口減と高齢化が進んでいる方だ。
集合地は地区のコミュニティセンター、かつての浦小学校。50年前には友達もたくさんいたが、現在地元に残っている人は数人だけ。閉校記念碑が哀愁を誘う。
まだ小雨が残り肌寒い中、出発までの待ち時間に皆さんが暖を取れるように焚火が準備されていた。背中を温めてから出発。
目の前を流れる浦川は岩盤がむき出しの川底だと初めて知った。
昭和47年(1972年)の上天草豪雨の時の被害は甚大で、関係者でなければ浦地区に入ることは出来なかった。この時に江戸後期から明治にかけて作られた文化財級の石造りの眼鏡橋2本も姿を消したそうだ。
こんな岩盤の上に薄く乗っかった土の上に田んぼをこさえて稲作をしていることにも驚きを感じる。
干拓地の中を歩く。
前は稲作一辺倒だったように思うが今はブロッコリーやレタスなどの野菜が多い。干拓地は米より野菜が適しているのかもしれない。
突き当りの棚底湾との堤防に向かって、干拓地特有の水路に沿って歩いて行く。枯れた水草があるのが水路。
引地集落を抜けて中浦集落へ。ここを歩くのは初めて。
浦地区で海に面したところはこのあたりだけ。海が見えるといいものだ。
中浦といえば、紅白に出演したバンド、ワニマの原点『パチンコ大和』。
みんなで記念写真を撮って浦5区の公民館へ。
公民館では暖かいお汁粉の接待があった。中に入ると干拓地にまつわる伝説を紙芝居にして披露してくれた。紙芝居は同時にスクリーンにも投影されて大勢が見やすいように工夫されていた。
昔々、干拓事業の最後の堤防作りが難航して人柱を立てることになって、ある老人が自ら志願して人柱に立ったというお話。老人は子供の頃家族と一緒に遠くの村から逃れてこの地に辿り着き、村の人たちに助けてもらって一家飢え死にすることもなく普通に暮らすことが出来た。いつか村のために恩返しをするよう親から常日頃聞かされていたが、家族に先立たれて一人となったこの身が村のためになるのならこんなうれしいことはない、と言って人柱に立ったという。村人は供養碑を作り、地蔵様を祀ったという。
この手の伝説は同調圧力によって人柱を強要した村人が自己弁護のために後日美談として作り直したものが多い。こんな伝説があるというのは本当に人柱を立てた証なのかもしれない。
公民館の山側にその供養碑があるそうだが、今は足場が悪くて近づくのが難しい。場所は写真の点線で囲ったあたりだそうだ。干拓地の堤防を真下に見下ろす場所だ。
その堤防の外側にさらに干拓地が出来ていて、太陽光発電パネルが並んでいる。元はシャコやアサリなどが豊富だった潟地だあったが、聞くと水害の時の土砂が主だという。水害で貴重な潟地が埋まってしまった。残念なことだ。
太陽光発電所の隣にはトラフグの陸上養殖場がある。
なんでも海上養殖よりも生存率が高くて歩留まりがいいらしい。立地としてはうまいところに目を付けたものだ。
堤防道路の橋に近くにあるお社。向かって左が農業の守り神住吉神社で右側は海の守り神金毘羅さん。地区の生業を表している。
金毘羅さんの鳥居が半分欠けているのはどうしてなのか分からない。
浦川沿いの堤防を上流に向かって歩く。満潮だと干拓地は右の水面よりかなり低い。
縫製工場から山側を見ると岩盤を流れる滝がある。
このあたりにはむき出しの岩盤の上を鏡のように流れる滝が何か所かある。梅雨時などは水量が多くてきれいだが雨が多すぎるとちょっと怖い滝になる。
コミセンに戻るとおむすびとお茶と暖かい豚汁が準備されていた。
具だくさんで量もたっぷり。美味しくいただいた。お楽しみ抽選会でいろんな賞品をもらってから解散。
浦川にはカワセミもいる。決まった止まり木に待機して魚を狙う。何度も撮影に成功しているが、ここ2年ほど出会ってない。しかしいつもの止まり木の下には新しいフンが白くついていて、雨が降って流されても翌日には元通り白くなるので間違いなく来ている。たまに会える珍しいお客さんだと思って再会の日を待っている。2024年3月22日
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10か月ぶりに上野へ。都美術館の『大西洋を越えてアメリカに渡った印象派の絵画』展を見学に出掛ける。上野駅の公園口改札を出ると、車道が消えて全面歩道になっていた!
ちょっと行かなかっただけでこんなに変わってしまうなんて、やはり東京は生きているんだ。
時は3月11日。どの施設も半旗を掲げている。午後2時46分には黙とうを捧げよう。
展示会は米マサチューセッツ州にあるウスター美術館のコレクションを中心に、時代や広がりを見せていた。見ごたえがあり、たっぷり2時間鑑賞した。記念写真コーナーが数か所設けられていた。
ウスターと言えばソースを思い出す。イギリスのウスター(Worcester)が発祥の地らしく、アメリカのウスターとは姉妹都市提携しているそうだ。お土産コーナーでこんな商品を見つけた。
期待を上回るコラボ商品。面白いにも程がある!
次にミッドタウン日比谷に「君たちはどう生きるか」を観に。上映までの待ち時間を皇居が見渡せる5階の展望テラスで過ごす。
こんな景色の良いリラックススペースがあるとは知らなかった!
劇場ではIMAXレーザーを初体験。アカデミー賞受賞ということで、映画館を出たところでテレ朝の報道ステーションとフジテレビのめざまし8の街頭取材を受ける。どちらかは使われるだろう、久しぶりにTVに出るかと思いきや、両方とも使われなかった。う〜ん残念!
ゴジラ-1.0の受賞を祝って昨日までで撤去される予定だったゴジラ広場が一日延長されていて、結構人が集まっていた。
日比谷シャンテ前ではゴジラが「TOHO」と叫んでいた。
残念ながら『パーフェクト・デイズ』は受賞を逃がしたが、去年9月に本ブログで紹介した浅草の昼飲み屋通りがロケ地になっていたりして親しみを感じた(記事はこちら)。アカデミー賞ノミネート3作品ではこの作品に一番共感する。僕ら『残された時間』を意識する年齢になると、本当の幸福とは何だったのか、自分の人生とは何だったのかを考えるようになる。役所広司演じる主人公の平山に引き込まれてしまう。深い作品だ…
東京は生きている。小田急線の新宿から世田谷代田まで地下化、梅が丘から高架にするという大事業が既に完成しているが、地下に潜ったあとはどうなっているかまだ見てないので寄り道してみた。
下北沢駅。井の頭線だけ残っていて、小田急線が見えない。見通しは良くなったが何となく寂しい。
そうか、今日はひな祭り。コロナでしばらく行ってなかった『鬼池ひなの会』に久しぶりに行ってみよう。
チラシ冒頭にひなの会が始まったいきさつが書いてある(赤矢印のところ)。
『もうすぐ三月ですけど寒いですね。お雛様の時期ですね。板引地区のお年寄り達は本物のお雛様を見たことがない人が多いんですよ。どうしてですか?子供の時には戦争もあったし、親たちは貧乏で誰も人形なんて買えなかったらしい。今ではどこでも普通に飾るんでしょ?飾らなくなって押し入れに仕舞い込まれている人形を借りられないでしょうかねぇ… お人形さんの前でお茶でも飲むところがあればいいんですけどねぇ… その話、乗ってみましょうよ!』。
動機が純粋で暖かい…マスコットキャラクターは鬼の角が生えたお雛様で鬼嫁にも見えて微妙だけど、筆者はこのイベント自体は好きだ。
板引地区は鬼池のはずれの方の小さな集落。しかし地区全体に「みんなで一緒に盛り上げよう」という気持ちが溢れているようで心が和む。
バス停にもお雛様。隣の菜の花畑がまぶしい。
ガレージにも。
民家の縁側にも。
植木にも。
駐車場には自作のお雛様。
商店がお雛様展示会場に変身。お雛様を見ながらお茶をいただけるように席を用意してあってお茶とお菓子をふるまってくれた。さっき外人さんが来たそうだ。
その外国の方5人組が手を振りながら通り過ぎて行った。
板引地区で始めたひなの会は仲間の輪が広がっているそうだ。古里と大島にも行ってみてはと言われ、古里公民館と大島コミセンにも行ってみた(残念ながら3月3日まで)。
古里公民館は目立つように紅白幕がかけてあった。こうしないとお客様が気づかずに通り過ぎてしまうからだそうだ。
中に入ると…
すごい!たった3人で飾り付けをされたそうだ。ここもお雛様に囲まれてお茶をいただく茶卓があって、暖かいほうじ茶がふるまわれた。コンセプトが浸透しているんだ!
竹製の手作りお雛様も。ネットで調べながら独学で製作したそうだ。
暖かいお茶を出してくださった。会話も楽しかった。ご馳走様でした。
最後に大島コミセンへ。
比較的広い会場なのでゆったりな展示になっている。
こちらには飛騨高山のお守り人形、さるぼぼがいた。
宮地岳のかかしの里も、元は小さなサークルから始まったそうだ。ひなの会も同じで、板引地区の有志から始まって近隣の人たちが加わり、さらに他の地区にも広がっている。地域のイベントの在り方としては理想に近い気がする。
旧鬼池小学校の本郷地区コミセンと板引地区は3月17日正午まで展示している。皆さんも地域のぬくもりを感じに出かけて見られてはいかがだろう。2024年3月8日
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新和町小宮地を抜け、宮地浦湾が見えてくる。湾の真ん中に横一列に棒が並んでいる。下の写真では見えにくいので近くに寄ってみる。
こんな感じ。一番手前の棒から一定間隔で向こう岸まで続いている。
湾を網で仕切って干潮時に魚を獲る仕切網漁の棒。春に体験会もあるそうだ。また一網15万円で一般の団体も利用でき、タモ網は貸してくれるらしい。
出発地点は竜洞山みどりの村。キャンプサイトやバンガローが整備されている。
駐車場下にはキャンプサイトがある。この眺望はすごい。2月だというのにキャンパーがいるのも頷ける。
受付はキャンプ場のテニスコート。
開会式の後ラジオ体操をして、いざ出発。
先ほどのキャンプ場横を抜けてゆく。キャンパーは帰り支度を始めていた。
よく手入れされた道を歩く。日差しがあるので暖かい。
海の景色がいい! いつも釣りに出かけているのは画面真ん中あたりに豆粒みたいに浮かんでいる「蜂ノ島」の近く。右に獅子島、左に御所浦、向かいに水俣・芦北の山々。素晴らしい。
途中に楊貴妃の像が建っている。近くにいた地元の人も「初めて見た」とおっしゃっていた。
関西大学学術リポリトジに「鄒双双」という人が書いた「伝説から現実へ蘇った楊貴妃の諸相」というレポートがあり、新和町の楊貴妃伝説を中心に面白い考察がされている。上記2つのワードをコピペしてググるとPDFがヒットするのでのでご一読あれ。
いったん管理棟前に戻り、コテージが並ぶところを抜ける。この先に仏舎利塔があるらしい。海から見れば竜洞山近くに白く目立つ存在なので気にはなっていたが、いざ行ってみるとでかい。
剃髪されたご夫妻が揃って接待に出られていた。
宮地浦湾を右下に眺めながら竜洞山の展望所に向かう。
展望所からの眺めは別の記事で紹介している(記事はこちら)ので割愛する。
昼食会場の管理棟へ戻る途中、孟宗竹の林が電気柵で囲まれていた。
イノシシ除けだろう。イノシシはタケノコが大好きでイノシシがいるところではタケノコは採れない。でもこの高さで防げるのかな?
そう思いながら歩くと、電源があった。
ソーラーパネル! これで電力足りるのかな? タケノコが出る木の芽流しの頃、雨が続くと電力不足になって電柵効かないし、雨後のタケノコガンガン育つしで、イノシシの食べ放題状態になるんじゃないかな。
そうこうしているうちに管理棟へ。お待ちかねの昼食。おにぎりと山菜おこわむすびと豚汁。
素晴らしい不知火海の景色を眺めながら昼食。
健康ウォークなので途中での説明はほぼなし。スタッフの方の高齢化が気になったが、気持ちよくウォーキングすることができ、お土産に朝獲れのキュウリを一人3本いただいた。
2024年3月1日
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さんぱーるから江樋戸方面に入ってどんどん走ると野釜島が見えてくる。野釜大橋は補修工事中だった!しかし通行には問題ない。よかった。
「南(野釜)」というバス停から散策開始。ここから先は車は入れないので、バスはここでUターンするみたい。
バス停隣には”忍び返し”がついた何やら怪しげな財団の施設の門があった。薄気味悪いから前を素通りして道のドン付きへ。
集落はここまで。野釜島の西の果て。この手前から海に下りてみる。
人が歩ける小道がある。
先ほどの財団のものらしい”ものものしい”柵に沿って海に出ると、誰が使うのかわからない小さな港があった。
防波堤の中は浅くてカヤックやゴムボートくらいしか使えないような気がする。背後には人の気配がしない財団の建物がドーンとあって、何だか見てはいけないものを見ているような気分になる。
しかし昔ながらの景色に出会った。海を向いた神様が祀られている。
神様の前を過ぎて進んでいくと、有明町あたりで「沖の黒島」と呼ばれている島がある。その左に見えるのが湯島。本渡方面で見る台形の姿とはイメージが違って丸っこい。
集落に戻って、高台の畑に上る道を歩く。見晴らしがいい。対岸の山々がみな天草の山々だというのが面白い。
南の方を見ると高杢島とその周辺の島が見える。
小さくて平べったく見える島は火山活動でできたものらしい。
来た道を振り返る。こんもりした島ならではの緩やかな坂道がいくつもある。
次に訪れたのは野釜漁港。
港の奥の方に鮮魚トラックがいる。近づいてみると活魚の積み込み中だった。活魚を積んだ船にはクレーンがついていて、船の上にはクレーン操作者とタブレット端末を持って出荷数量を記録する人。ここでもDX?
カメラを向けると作業中の若い男性二人と目が合った。すると、お辞儀をしてくれた。何というフレンドリーな島だろう!
暖かい気持ちでお食事へ。毎年冬のみオープンする『うみそら』へ。急な坂道を車で上るのは勇気がいるが、上には広めの駐車スペースがあって楽ちんだった。
この冬が4度目のシーズン。モントリオールに永住権を持つ暑さが苦手なご夫妻が、夏はカナダ、冬は天草でシェフをするという。今年は少し早めに3月9日で終了するそうだ。
店の構えと玄関。
中に入るとこんな感じ。
窓からの景色。
金曜日はパスタランチもある。筆者はジャージー牛のローストビーフ丼温玉乗せ。ボルシチ、サラダ付き。
ツレはパスタランチ。フォカッチャ、ボルシチ、ふのりのオムレツ付き。
野釜島から見る景色は大矢野島から見る景色とも違っていて面白い。普段見慣れた山の形と違って見えるので、どれがどれだかわからないくらいにイメージが違う。双眼鏡と地図を持参した方がいいかもしれない。2024年2月23日
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県道44号線を苓北町方面に走る。本町地区コミュニティーセンターを通り過ぎてさらに進む。集落が途切れて山間部に入り、再び集落が見え始めると郵便ポストがある。『不動の滝』という看板と一緒。ここから散歩開始。
ポストの向こうに茶畑が見える。のどかな風景に心が和む。
来た方をを振り返ると「カクイわた」の看板。下浦には子守娘のホーロー看板があった(関連記事はこちら)が、こちらは簡易版。とにかく九州各地の集落にはこの『カクイわた』の看板が残っているところが多い。
子供の頃から見てたけど、今もあるのか気になって調べてみたら、カクイ株式会社って鹿児島市に本社がある現役バリバリの会社だった。子守の女の子の姿をモチーフにした意匠は今も使っているみたい。
それにしても昭和の昔から九州各地で掲示スペースさえあればホーロー看板を設置するなんて相当な投資だったろうが、今でも広告の役割を担っているのが面白い。限界集落に近づくほど名残の看板が残っているという事実も面白い。今は「カクイックスグループ」の一員。この4月から鹿児島県民交流センターの名前が「カクイックス交流センター」になるそうだ。
さて不動の滝に行ってみよう。立看板の矢印の方にフェンスが見える。あそこを登るらしい。
しかし草木が階段を塞いでいて入れない。
仕方ないので水神様の前の沢を伝って10メートルほど進むと滝があった。
「不動の滝」の看板もあるが、残念ながら滝周辺は荒れている。水はちょろちょろとしか落ちていないが、地層の露頭はすごい。そのうち孟宗竹で埋め尽くされそうな感じ。水量が豊富な時は沢伝いは無理。近くの民家のお庭を通していただかないと行けないかもしれない。
44号線に戻って苓北方面に進むと「平床農村公園」というところがあった。
桜の木がぐるりと公園を囲っていて、地元のお花見スポットになっているのだろう。合併記念樹として『なんじゃもんじゃ』の木が植えてあった。梅雨入り頃スイカズラの花に似た形の真っ白い花をつけるのだろう。
次に百貫の滝を目指す。ちょっと距離がありそう。途中平床公民館前を通過。
平床川沿いの棚田のあちこちで焚火の煙が立ち上っている。
県道44号線が苓北方面にヘアピンするところを曲がらず、川沿いに歩く。風車が近くに見えるようになった。
「木の香り製造所」前を通る。
こちらは天草ヒノキからリラクゼーション効果のある成分を抽出して販売されているが、その香りは何とも言えないさわやかさがあり、本当に気分がよくなる。ヒノキから抽出される量はわずかなので、枝打ちや間伐材などを集めて抽出するそうだ。木の部位によって香りも違うらしい。
百貫の滝は百貫石という巨石の奥にある。古くから百貫石には春日大明神が祀られていて百貫様の名で親しまれている。
平床川源流方面に上って人家が絶えたすぐ先に入り口の橋がある。
木漏れ日の中、百貫様を目指す。何となく道がある。
小さな滝に遭遇。これが一の滝だろう。
さらに上流を目指す。春日大明神の鳥居に遭遇。境内に入らせていただく。
鳥居から数分で百貫様に到着。石の下には祠があってお供えなどしてある。地区の説明書きによると約750トンの巨石で、百貫ではなく二十万貫になるそうだ。
百貫の滝はこの上流にあるそうなので、坂瀬川層の砂岩がごつごつと転がる河原をひたすら滝を目指して上って行く。『百貫の滝』の矢印看板があるのでそんなに遠くはない、という期待は見事に裏切られる。行けども行けどもそれらしい水音が聞こえてこない。
険しい河原を上ること20分、ようやく水音。あった!二の滝だ!水量は少ないがこの地層の露頭もすごい!
よく見ると滝の上で睨みを利かせる何者かが!
人の顔にも見えるしライオンの横顔にもサイの横顔にも見える。滝の主なのだろう。
さらに上流に三ノ滝があるそうだが、道はここで途絶えている。滝の後ろに回ってみたが雑木と蔓が行く手をふさぎ、やぶこぎも難しそうなので引き返すことにした。
天草イコール海、ではなくてこのような山村地帯があるのがすごい。新緑が似合いそうな地区なのでまたGW頃に訪れてみたい。2024年2月16日
]]>町のシンボル、造船所が見える港の風景。この辺りは江戸時代の干拓地(埋立地?)だったそうだ。だからか港の本名は「登立新田漁港」というらしい。
今も快速バスあまくさ号は港そばの旧道を走る。
バス停から南にちょっと歩いたところの高台に祇園様を見つけた。
境内には狛犬ならぬ狛馬がいる。馬は初めて見た気がする。左奥の登立小学校から児童の元気な声が響いている。
さらに南に歩いて行くと「ザ!鉄腕!DASH!!」の『0円食堂』に登場した竹輪屋さん。
5年前に息子さんがお嫁さんと一緒に戻ってきて家業を継いだとおっしゃってたけど、皆さん元気かな?
さらに先に歩く。『鷽(うそ)替え神事』があるという天神様、登立天満宮がある。鷽替え神事は大宰府、湯島、亀戸など各地の天神様で行われるらしい。鷽という鳥は見たことがないが天草にもいるのかな?
道向かいにある印象的な写真館「スタジオコニシ」。50年前にはすでにここにあった。当時は『〇〇写真館』と書いてあった。
天満宮様に上る。一の鳥居脇の楠は『舟つなぎの木』と言われているそうだ。階段下はかつて海だったそうで、この木に船をつないでいたことからこう呼ばれるようになったそうだ。
境内に到着。この狭い島に不釣り合いなほど広い。
左手にはおみくじを結んだ木も。良い運が授かるといいね。
裏に回ってみた。社殿も立派。天神様の牛がいる。
裏手には草に覆われた土俵があった。
50年ちょっと前、筆者の中学校に日本相撲協会の寄贈で土俵が作られた。できたすぐは珍しがって相撲を取ったりしたが、1年もすると誰も使わなくなって荒れてしまったことが思い出される。
スタジオコニシから細い裏通りに入って北上する。来た道からスタジオ方面を振り返ると、この道は旧道のさらに前の旧道だったような感じ。
たまたま出会った品のいい年配のご婦人にお聞きすると、やはりこの道は港の前の道よりもっと古い旧道だそう。この方も随分久しぶりにこの道を歩いたそうだ。立ち止まってほんの少しこの道の思い出話などしてほっこりした気持ちになった。
いい人に出会った旧道を、さらに港方面に進む(戻る)。
港近くにいるが港から遠ざかっている気がする。戻る道を探していたツレが「すごい船があるよ」と教えてくれた。見ると手作りの模型船たち。すごい。平屋建てを一軒模型船の置き場として使っている。写真を撮りたい!誰に許可を取ればいい?
聞き込み開始。でも人に出会わない。30mほど歩いたところで玄関掃除をしている人がいた。持ち主のお宅を伺ったがピンとこない。うろついていると工事の軽トラが来て模型船置き場の近くに止まったので教えてもらった。
出て来られたのは70歳くらいの男性。撮影の許可を乞うとすんなりOK、しかも中に入れてくださった!いるいる。戦艦長門。
長門はハセガワやフジミなどのメーカーからプラモデルが出されている。ハセガワ といえば、1月下旬に『1/48 日本海軍 九州 J7W1 局地戦闘機 震電 』のプラモデルを発表して話題になった。尻尾にプロペラを付けた独特の戦闘機でB-29などの長距離爆撃機を相手に戦う予定だったが、初飛行から12日で終戦を迎えたそうだ。
隣の部屋には貨物船の中に戦艦大和がいた。沖縄特攻作戦の時の艤装を再現している。
住居の応接室にも数隻。タイタニック号もいる。
ご主人は元船乗りで、自分が乗ってみたかった船を作るのが趣味。最初の3か月は徹底的に資料を読み込んで作る船のイメージを固めるそうだ。これから日清戦争の主力戦艦3隻を作るということなので、登立港裏手の旧道を歩いていると庭先で製作している姿に出会えるかも。2024年2月9日
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料理を始める前に包丁を研ぐ。砥石の選び方や研ぎ方はネット上にあふれているのでそちらを参考にしていただくとして、研ぐときの台について紹介。砥石をしっかり保持して動かない台を手軽に自作しよう(まな板の上で研ぐのは衛生的にも好ましくないので、シンクの上に橋を架けるような台を作る)。
手順はこう。?シンクの内側の寸法を測る ?DIYで幅8〜10cm、厚さ2cm程の板材を探し、シンクの内寸法プラス30cm以上の長さがあるものを選ぶ ?板材を3つにカットしてもらう。"シンクの内寸法プラス10cm板"を1枚、"10cm板"を2枚 ?板厚の2倍以内のステンレス製木ねじ数本を買う ?家に帰ってシンクに板を渡してバランスのいい位置を決める ?10cmの板を裏に当ててストッパーとしてねじ止めする(必ず片方を固定して残り片方の位置を決める)。これで完成。
筆者の場合シンクの内寸法が45cmだったので、『厚さ2cm×幅8.5cm×長さ90cm』の板を選んで、長さを55cm、10cm、10cmにカットしてもらった。ネジは4×30mm。残り15cmの板を使って台の表に砥石ストッパーも付けられるが、大きさが違う砥石を何種類か使うのでストッパーなしでタオルを敷くことにした。材料費とカット代でワンコインちょっとで済む。
完成した台をシンクに渡してタオルをかけ、砥石を置くとこんな感じ(↓)。シンクの縁の幅に合わせ、狭い方に3.5cm、広い方に6.5cmかかるように配置した。
包丁が研げたら次はウロコ取り。下の写真の上のウロコ取りは、キジハタ、ヒラメ、コチ、カンパチなど細かいウロコが密な魚用のギザギザ歯式。下のはタイなど普通の魚用。ウロコが密に付いている魚は普通の魚用では取れにくいが、ギザ歯はきれいに素早く取れる。ヌメリもよく取れるので調理がしやすい。ギザ歯の反対側の背は血合いやワタを掻き出す時に重宝する。新潟の燕三条産で価格も千円程度。これ一本でも十分なのだが、二種類持って使い分けると万全!
うろこが取れたら魚を三枚におろす。今回はサバ。大変おいしい魚だが、気になるのがアニサキスという寄生虫。目視しても見えるが、ブラックライトというLED電灯を使えば簡単に正確なチェックができる。発見したらピンセットで取り除けばもう安心。
ブラックライトは波長365ナノメートルの紫外線に近い波長のLED電灯で、最近はUSB充電式が主流。価格は2千円でお釣りがくるくらい。
ブラックライトで一万円札を照らすと普通の光と見え方が違う。
実際にサバを検査している様子。下の写真の上は検査前の切り身、下はブラックライトで検査しているところ。照明を暗くしてくまなく紫外線を当てて光るものがないかチェックしている。結果、この切り身は合格!検査時間8秒。
アニサキスは1センチもない糸くずみたいな姿で、いれば一発で分かる。天草のサバは安全だが、それでもこの1年間で捌いた50匹ほどの中で一度だけ1匹いた。この方法だと見落とすことがないのでおすすめ。
今はスミイカがおいしい季節。イカを刺身にするとき、表面に飾り包丁を入れるのに便利なグッズがある。百均で売っている『ネギカッター』。どの百均でもピーラーがある棚にある(点線で囲ったとこ)。
元々は白髪ねぎを刻む道具なのだが、イカ刺しの飾り包丁が一気に入れられる。
他にも応用が利くはずだから、面白いアイディアがあれば教えてほしい。
最後にまな板洗いの必需品。百均で売っているお風呂の鏡用ワイパー。ウロコ取りと合わせて下の写真のような感じ。
まな板を洗った後、これで表面の水けを切る。窓掃除用のワイパーは幅が広すぎて使いにくいが、お風呂用は短いので力も入れやすいしコントロールもしやすい。側面の水切りもできる。水切りした後にキッチン用アルコールを吹き付け、布巾で拭いておけば季節を問わず衛生上の問題は起きない。2024年2月2日
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鹿児島県の獅子島近くでカンパチを狙っていたら、干潮の潮止まり頃にドカン!と当たり。カンパチのように走る!けどカンパチほど縦に走らない。力は強い!けど距離は走らない。やり取りすること5分。魚体が現れた。やっぱキミか!
現れたのはシロザメ。ギャフ(巨大なカギ針)で引き上げてもいいが、かわいそうなので、何とかタモ網(直径60cm)で掬い上げるが、網が小さくて掬い上げるまで3分近くかかってしまう大捕り物だった。
こちらとしては手間かけて作った仕掛けさえ回収できればよくて、食べるつもりはない。咬まれたら大変だが、おとなしいサメで自分から咬みつくことはまずない。暴れている間偶発的に咬まれないように細心の注意を払って落ち着くのを待つ。相手は鮫肌なので尻尾を掴んでもグリップは滑らない。タイミングを見計らって一気に海に投げる。5キロ以上あるので大変だが、無用な殺生はしたくない。
コイツらはせっかくかかったイサキを横取りしていたやつらだ。釣りあげている途中でイサキを針ごと引きちぎって行くので、これじゃ釣りにならんと場所を移してカンパチ狙いをしていた時の出来事だった。
別の日に釣れた気性の荒いシュモクザメ、ハンマーヘッドシャーク。
このくらいの大きさならコントロールできるが、大物に食いつかれたら泣きながら仕掛けごと糸を切るしかない。
いつも釣りに出かける前に港の岸壁をチェックする。時々アカニシガイやカニがいるから。この日はカニがいた。タモ網を準備して気づかれないようにそっと近づく。網が届くところまで近づいたところで一気に網を海中に突っ込んでカニに被せる。しかしカニも岸壁から離れるとヤバいとわかっているらしく、コンクリートにしがみついて離れない。網を被せたままにらみ合い。カニが動き始めるまで待つ。
獲れた!大きな石ガニ。が、ハサミで網を掴んだまま離さない。すごい力だ。指なんか挟まれたら大変だ!バケツに裏返しに入れて網を離すのを待って、やっとお縄。
黒っぽいが、茹でると赤くなる。実においしいカニだ。
もう一つ、危険な生き物。大きなフグ。このフグは無毒の「白サバフグ」。筆者が唯一料理できるフグだ。怒って膨らんでいる。無毒なのになぜ危険なの?
フグの歯は鋭くて彫刻刀のようになっている。下手に指なんか咬まれたら食いちぎられてしまう。小型のフグならまだしも、30センチクラスになると十分注意が必要。このフグも30センチ近くある。用心用心。
ここまでは物理的に危険な生き物だったが、ここからは化学的に危険な生き物。トップバッターは、おいしいけれどさされたらシャレにならないオコゼ。
背びれの毒は強烈!余程のことがない限り刺されて死んだりすることはないが、半日以上激痛が走りズキズキする。刺されなくても背びれにちょこっと指が当たっただけでも30分は痛む。でもおいしい魚で超高級魚であることはご承知の通り。山の神様の祭りには必須アイテムだ(関連記事はこちら)。
仕上げはエイ。筆者の地元にはアカエイとツバクロエイがいるが、最近はツバクロエイが圧倒的に多い。エイはコツコツとかいった”当たり”がない。
今年の正月明け、鯛や平目やコチを期待して移動テンヤ仕掛けで探っていたら、急に竿が動かなくなった。ヤバい、養殖いかだのロープにでもひっかけたかな?万事休す。糸を切るしかないか…と、糸を切る準備にかかったら、糸がグッグッと引かれた。やべ〜これエイじゃん。重い。リールが逆回りして糸が出てゆく。相手が少し引きを緩めるとこちらが頑張る、を繰り返して5分。現れたのはやっぱエイ。姿がステルス戦闘機Fー117ナイトホークみたいなツバクロエイだ。両翼90メートルならぬ90センチメートル。3〜4キロくらいだろう。
暴れるにしても両翼をバタつかせるというか、巻いて戻して、うちわって感じ。愛嬌がある。
しかしご用心。エイには尾っぽの根元近くに毒針がある。しかも刺さると抜けにくいように”返し”が多数ついているので刺さったら抜けない。刺されて医者に駆け込む例も珍しくない。ツバクロは尻尾が小さくて短いから安全なように見えるが、ちゃんと毒針がある。食べられるエイなので、持ち帰る人は尻尾を根元から切り落とすが、筆者は一度トライしてみて美味しいとは思わなかったのでリリースする。これもギャフを使わずに網で掬って仕掛けを回収してリリース。めでたしめでたし。
おしまいは物理的にも化学的にも無害なカニ。エビのかごの蓋にイソクズガニがいた。蓋をあけないとエビにご飯をあげられないのでつまんで逃がそうとするが網目にしがみついて離れない。仕方なくカニを乗せたまま蓋を外してからまた閉めておいた。
翌日、エビのご飯の時間がやってきたが、まだいる!よほど気に入ったんだね。そのまた翌日に釣りに出かけるときにはいなかった。やっとあきらめたか。
しかしその翌日、また戻っていた。お気に入りなのだろうけど、かごを洗うから邪魔だよ。
しかたなくカニを乗せたまま籠の掃除をしたら、少しご機嫌が悪くなったようで翌日からはいなくなった。このカニ、自分が気に入った海藻などを背中にくっつけて擬装するらしい。毒も危険もないけど、面白いカニなのでご紹介まで。 2024年1月26日
]]>(つまんねぇ:心の叫び)。
春が近づくと暖かい雨が降ることがある。そんな雨上がりには、倉岳山が雲の上に現れたりする。
熊本に行く途中に現れた、あたたかい色の天使の梯子。春近し。
国道57号線を宇土方面に走ると有明海の干潟にクロツラヘラサギの白い姿(画面中央下の白い鳥)が。春になればシベリア方面に旅立つのだろう。潮干狩りの人の姿が見られる。春近し。
海中で貝を採っている漁師の近くでは鴨が泳いでいる。静かな海に、春近し。
このあたりは1980年代まで国道沿いにアサリの直売所が並んでいたが今は見かけない。浜から上がった漁師さんに話を聞くと、採っているのはハマグリで、もうアサリは採れないそうだ。ハマグリか。桃の節句も近いな。
近くに不思議な風景みっけ。鴨が泳いでいて、人は海の中を歩いていて、船は動いていて、なのに軽トラだけ停車していて、カオスじゃ!
天草市有明町の暖かい日差しに包まれた冬の浜辺。Q:鳥がいるのがわかるかな?
A:日向ぼっこする4トンビ。景色に溶け込んでる。日差しが告げる、春近し。
手漕ぎの船のおじいさん漁師もそろそろ始動したみたい。あたたかい雨がパラつく海の上で合羽を着てカモメと何か話している。のどかな海に、春近し
「ととのいました」の”ねずっち”もここ1,2年若い世代を中心に支持が広がり、明るい芸人生活になってきたらしい。ブレークした十数年前以来の二度目の春を迎えようとしている。春近し。 2024年1月19日
]]>上天草市姫戸町の姫浦に出掛けた。子供の頃に定期航路の船上から見たことしかない港町で、池の浦と同じくらい気になっていた町だ。
ところで姫浦の読み方は「ひめうら」なのか「ひめのうら」なのか?上天草市役所に問い合わせたら『ひめうら』が現在の正式名称。「でも『ひめんな市場』ってありますよね」と食い下がると「昔のなまりでしょうね」。たしか姫浦の名前を冠した恐竜時代の地層名は「姫浦(ひめのうら)層群」という名前だったはず。天草市立白亜紀資料館に問い合わたら明快な答えが返ってきた。「姫浦が”ひめのうら”とか”ひめんな”と呼ばれていた頃にここの地層に関する論文が書かれて”ひめのうら”の名が使われました。その後町村合併時に地域名が”ひめうら”に統一されましたが論文は書き換えられず、”ひめのうら層群”のままです。一方御所浦にある御所浦層群も、”ごしょのうら”とか”ごしょんな”と呼ばれていた頃に”ごしょうのうら層群”と命名されましたが、町村合併の時に正式名称を”ごしょうら”に統一したことに伴って論文も”ごしょうら”に全面書き換えされ、現在正式名称は”ごしょうら層群”となっています。」う〜ん、深い…
前置きが長くなった。一月二日の穏やかに晴れた午前、姫戸町に入り姫戸公園(場所はこちら)から散策スタート。
姫戸町はワタリガニの産地。何につけてもカニがあしらわれる。ゴミを捨てると怒るカニ姫。
カニ姫だけかと思いきや、”ゴミは持ってカエル”がいるし”怒るゾウ”もいる。
公園内を海に向かって歩く。途中で海を見ると、桟橋近くにコンクリートの構造物が見える。何かいわくつきみたい。
その先には金毘羅様が祀られ、広場になっている。
先端には階段があって、海岸まで下りられる。
海岸に出ると、ピューマみたいな岩があって、海に突き出た岩を食べようとしている。
さっき見かけたコンクリートの構造物を岬から観察してみる(マリーナの鉄骨クレーンの左隣)。固定桟橋の橋脚らしい。
気になるので近くまで行ってみることにした。
姫戸公園から竜ヶ岳方面に歩いてみると、なんと海の中だけでなく陸上にも大きなコンクリートの構造物があった!
何となく魚貫(おにき)の炭鉱遺跡を思い出す(記事はこちら)。しかし天草上島では石炭は出なかった。頑丈なコンクリート作りなのは、相当重量があるものを搬出していたからだろう。だったら石灰岩(厳密には結晶質石灰岩=大理石)の積み出し港だったのではないだろうか。今でも石灰岩はこの先の雨竜岬(場所はこちら)付近で採掘されている。
採掘現場に行ってみると関係者以外立ち入り禁止(当たり前だ)。看板前から遺構を振り返って見ると納得の風景(マリーナのクレーンは無関係だけど)。石灰岩(大理石)を船積みするための施設だったに違いない!
と勝手に納得して姫浦に戻る。帰り道からの風景。巨大なクレーンタワー。造船所かな?右端には小島公園が見えている。
岬道をぐるっと回って姫戸小学校に到着。ここから旧道に入る。
小学校の向こうにあった大型クレーン。近くで見るとでかいなぁ。
姫浦にはスーパーがある。ここがなくなったら大変。みんなで利用しよう!
地元に商店がなくなることがどれほど不便か経験済みの筆者としては、地元の商店を”守る”覚悟が必要だと思う。ちょこっと安いからと言ってガソリン代かけてよそに行ったりすれば結局同等か割高になるし、何より商店がなくなって一番困るのは自分たち自身だということ。なくなってからでは遅い。
先に進む。姫戸港に着いた。正月休みなので堤防には釣り人が並ぶ。小島公園が近づいてきた。
小島公園に向かって堤防道路を歩く。
左側に”甲羅や”が見える。昔はランチできたのだが、コロナの後は予約制のワタリガニ懐石料理専門店になっていた。ちょこっと寄れる店ではなくなっていた。
店の前の入り江は生簀なのか釣り堀なのか?
中を2kg前後の鯛が悠々と泳いでいる。生簀だったら捕まえるのが大変なので、きっと釣り堀なんだろう。
小島公園に到着、小島の頂上から景色を見る。姫浦の町を一望。
八代海。
先ほどの「うらもとストア」から右に折れて山の方に歩くと姫石神社がある。姫神様がお宝満杯の袋を積んだ船に乗ってきて、この場所が気に入って”ここを聖地にする”と告げられたそうで、お宝を詰めた”袋石”とそれを積んできた”船石”がセットで”姫石”として祀られている。他にも景行天皇の御座船が八代海で嵐に遭遇して転覆しそうになった時、竜神様に天皇救命嘆願をして荒れ狂う海に身を投じて嵐を鎮めた姫君を祀っているなど諸説あるらしい。
姫浦という地名も雨竜岬という地名も何となく関連がありそうな気がする。
ゴールは姫浦神社。正月二日とあって参拝客が引きも切らないのでシャッターチャンスを待つのに苦労するくらいだった。
参拝を済ませて時計を見ると小一時間が経過、気になっていた姫浦の散策は無事終了。今では道路が整備され三角港や八代港への定期航路はなくなっているが、"弱虫ペダル"を知らなくてもアニソン"恋のヒメヒメぺったんこ"を知らなくても、ヒメに行ってみると面白いゾウ! ではそろそろカエルとするか。
2024年1月12日
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12月23日、?津教会にて
お行儀よく門柱の脇で皆さんをお迎えしています。
12月24日、倉岳町棚底城跡付近にて
きれいな形の虹が現れました。この後一瞬だけこの虹の外側にも虹が現れて二重橋になりました。
12月27日、倉岳町棚底にて
なかなか見かけない標識ですねー。『キ』なのか『才』なのか謎です!一昨年開通した国道266号線の大道⇔棚底間にあります。
12月27日、上天草市龍ヶ岳町の東風留漁港にて
今では貴重な正月飾りの大漁旗。見ていると漁場の活気が伝わってくるようです!
2024年、これから巻き返しです! 2024年1月5日
]]>突然ですが、今年の記事の中でアクセス数が多かったTOP5はこうなりました。
掲載一週間の
アクセス数 タイトル名
第5位 414 でんきとレタス 苓北に行ってみた
第4位 465 天草、夜光る!
第3位 481 名物アコウのトンネル〜池の浦から唐網代へ
第2位 633 忍び寄る限界集落消滅の足音
第1位 908 シン・ドキュメント72時間〜ある限界集落の秋祭り
天草の各地を歩いて見つけた風景を紹介する記事の中で、『名物アコウのトンネル〜池の浦から唐網代へ』が第3位に入ったのは嬉しいことでした。池の浦は、釣り関連の潮汐表によく取り上げられる港です。池の浦は龍ヶ岳町で、昔は倉岳町と同じ天草郡でしたが今は上天草市(隣町)です。子供のころ三角行きや八代行きの定期航路の船上から眺めたことしかありませんでした。何となく響きがかっこいいので一度行ってみたかった町でした。アコウのトンネルはサイクリストからインスタ映えすると言われているようです。
第一位と第二位はいずれも人口減によってギリギリ消滅を踏みとどまっている地元棚底の様子を角度を変えて見た記事二本です。二位の「忍び寄る限界集落の足音」では商店やタクシーが相次いで廃業したことを報じましたが、この記事アップ後の2月末には歯科医院も廃業してしまいました。2023年は、地区にとって踏みとどまっていたつもりだが消滅に向けて歩み始める転換点でした。
最もアクセスをいただいた「シン・ドキュメント72時間〜ある限界集落の秋祭り」では、郷土の伝統芸能を守ろうと練習に励む人々の姿を祭りの3日前から追いました。取材を通して、先々を悲観するよりも今出来ることに全力で取り組んでいこうとされている皆さんの真摯な姿に感動しました!またありがたいことに他の市町村から移住してきて祭りに参加して下さる方もおられました。みんながつま先だけで踏みとどまりましたが、いったん回り始めた大きな歯車の慣性は簡単には止められません。10年後に視線を移してみると不安がよぎります…
今年の行事の最後は山の神様の祭り(やんかんさんまつり)でした。山の神様は容姿が悪く嫉妬深い女神様で、お供えには神様より醜いオコゼを供えし、きれいな服を着て行ってはいけないと言われています。山の神様が田んぼに下りて来て田の神様になり、また山に戻って山の神様になるともいわれます(地方によってあるいは地区によってちがいます)。
祭りの当日、林業関係者、農家、漁師が参列。神様にお供えして神事を待ちます。まるで水の輪廻に沿った人たちが集まったような感じです。
よく見るとお供えはオコゼ。しかも4尾。
祭りの日に合わせて獲ろうとしても、めったに釣れないし網にかからないし、おまけに早めに釣っていけすの中に入れておいてもせいぜい4日程度しか生きないという難しい魚。よくぞ4尾も確保できたものです!山から田んぼ畑から海まで繋がっていることを、人々は昔からわかっていたんです!
ちなみに筆者はオコゼをここ3年で2匹しか釣ったことがありません…
皆様がお読み下さることが筆者にとって一番の励みです。また来年も話題をご提供できるよう頑張ります!どうぞご愛読のほどよろしくお願い申し上げます。
新年は1月12日から再開予定です。どうぞよい年をお迎えください。 2023年12月29日
]]>12月に入ると天草各地でイルミネーションが点灯する。規模よりも魅力的かどうかだが、まぁ見てくださいナ。
最初は離島御所浦から。イルミネーションは嵐口(あらくち)漁港のすぐそば。棚底に戻る定期航路は17時50分が最終なので、夜景を見るには泊まりか海上タクシー(嵐口から棚底まで3千円で12人まで。10人なら一人あたり300円)で戻らなければならないので少しだけハードルが高いが、それだけの価値があると思う。
12月10日。御所浦で忘年会があったので、合間に見学に行ったらいきなりこんな景色が!
恐竜の島御所浦らしく画面左にスピノサウルス、右にアンキロサウルスのシルエットが浮かんでいる。そこに手漕ぎの伝馬船が彩を添えている。てっぺんには御所浦のマスコットキャラクター「てらのくん」らしき姿が。
ここの見せ場は伝馬船。LEDのブルーの波に漂う櫓漕ぎの伝馬船2艘。こんなイルミネーションって…
枯山水の砂が光を放っているかのようで、穏やかな海を表現している。櫓から雫が滴っているようにも見える。これこそ不知火海に包まれた御所浦ならではの見事なイルミネーションだ!
翌週?津を訪ねた。教会内で行われたコンサートが終わるとあたりは宵闇に包まれていた。音楽の感動の余韻を味わいながら散策。
諏訪神社の鳥居越しに見るライトアップされた?津教会。これを一度見てみたかった。
駐車場への帰り道。港越しに見える教会。
せっかくだから牛深町のハイヤ大橋まで足を延ばそう。虹色のライトアップを見に。
橋を遠目から見た時と渡っている時は、こんなに鮮やかには見えないのでご注意。橋を支える板状の構造物で区切られた部屋一つ一つにライトが仕込まれているので、反射光がよく見える角度がある。展望所からの見え方が一番鮮明なようだ。
帰りは大江天主堂を回ることにした。散策路の入り口。
天主堂全景。
教会入り口から見る。
今年も美しい姿を見せてくれている。
ロザリオ館もライトアップ。
となりにサンタの小部屋があってサンタがいる。中で拍手をすれば音楽に合わせて踊りだす。
先客のおじさんは気に入ったらしく、アンコールしていた。
大江町の白鶴浜でもライトアップしていると聞いてさらに足を延ばしてみた。白鶴浜海水浴場駐車場から浜に出る。松林全体がライトアップされている。
御所浦の海が静だとすれば西海岸の海は動だ。季節風が吹き、白波が打ち寄せる。
風の音と波が砕ける音が素晴らしいBGMに聞こえる(動画はこちら)。寒さ対策をしてしばらく見つめていたい音と風景。
天草の夜景を集めていたのだが、意外にも天草の海の多彩さを改めて実感することになった。2023年12月22日
]]>有明町は筆者が住む倉岳町の隣町だが、山を越えるか迂回するかしかないので意外と遠い。今回は志柿町を通る迂回ルートにした。
8時前の有明町下津浦。海面も町も湯気に包まれている。穏やかな晴天になりそう。
大浦地区のコミセン分室に到着。大浦は室町の頃、倭寇の拠点だったとのこと。コミセンは昔大浦小学校があったところだそうだが、今は楠甫(くすぼ)小学校と統合されて大楠(だいなん)小学校になっている。
受付にオレンジ軍団がいる。『有明フットパスボランティアガイド』の大楠小学生たち。今日は彼女たちも説明をしてくれる。
出発を待っている間にカモの大群が南東の方角に渡って行った。
主催者の挨拶とガイドの自己紹介のあと出発。大浦フットパスには山コースと海コースがあるそうだが、今日は少しだけ山コースを歩いてから海コースを歩くそうだ。
山コースでは九品寺と阿蘇神社を回る。九品寺にゆく途中、2012年に閉校になった天草東高校跡があった。
生徒がいる頃を知らないので、こんなところに無人の校舎がポツンと残っているのは何となく不思議な感じがする。
九品寺に上る。
小学生ガイドの解説によると、天草島原一揆の後鈴木代官が建立したお寺で、閻魔大王の像で知られているそうだ。ご住職が「死ぬと閻魔大王から生前の善行について聞かれるので「九品寺にお参りに行きました」と答えれば多少効果があるかもしれない」と言われたので笑いがこぼれた。小学生ガイドはこのあたりに伝わる山姥伝説も披露してくれた。
続いて大浦阿蘇神社へゆく。菊池氏の支配下にあったころに建立されたそうだ。
毎年10月第三日曜日に祭りが行われ、太鼓、獅子舞が奉納されるそうだ。
休憩所の大楠小学校に向かう途中、デコポン収穫の皆さんに会った。
「おすそ分けあげるけん誰か取りに下りて来んね」と言われたが、ちょっと距離があったのでお気持ちだけいただいた。
大楠小学校の校庭で小休止。いきなり団子とみかんをいただく。いきなり食べてしまって写真を撮り忘れた…暖かくてしかもおいしかった! お団子の後に食べても甘いみかんだった。
一息ついて小学校を出発。隣にある丘は古墳で、石棺のふたが二枚見つかっているそうだ。
古墳の下には塩釜(しおがま)神社がある。宮城県塩釜市にある鹽竈神社が総本山で名古屋地下鉄鶴舞線の塩釜口にもある。
何で天草に?と思ったら神社前の荒れ地は干拓地で、戦後しばらくまで塩田だったからだという。結構広い。
堤防を過ぎると正面に高杢島、左に大浦港が見えてくる。
海沿いを大浦港に向かう途中、珍しい果肉植物のお店があった。
大浦港に着いた。昔は天草の玄関口としての役割があったらしい。
雲仙も湯島も沖の黒島も一望できる。
何と、漁師さんが「みんなでどうぞ」と獲れたてのコノシロを下さった!急遽スタッフの方が車の手配をする。これがフットパスの意外性。
大浦は干拓が盛んだった地でもある。この一帯の畑も干拓地。
近くで見かけた干物のかご。風通しがよくて良さそうだけどこんなに高くしてトンビに狙われたりしないのかな?
向こうに見える小高い丘には大浦城があって、出入りする船の監視や物資の補充などを行っていたらしい。水を確保するために井戸が掘られ現在も残っている井戸がある。
お昼前にコミセンに戻る。待っていたのはおもてなしの料理。さきほど漁師さんが差し入れしてくれたコノシロも刺身になって並んでいる。ご飯は山菜まぜ飯、汁はアオサのお吸い物。
有明町と言えば『タコ』!
有明ではタコが去年も今年も不漁なのだそうだ。天草全体でも状況は同じ。
明石焼で有名な明石でタコが激減したことがあって、有明町から生きたタコを大量に買って放流したという話をされた。調べてみると本当らしい。昭和38年に明石海峡は記録的な寒波に襲われ、海水がタコが生きられる限界水温を下回って激減したらしい。そこで翌年、明石の9漁協が有明町からタコ3万7千匹、10トンほどを買い入れ放流したそうだ。昭和59年にも10トンほどを提供したらしい。その天草のタコも現在危機にある。国立「水産研究・教育機構」が養殖技術の開発を進めていて成果も出ているらしいが… もはや自然回復は難しいのだろうか?
帰りにはわかめの茎の佃煮をお土産にいただいた。実においしかった。 2023年12月15日
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仏木坂は、天正17年(1589年)豊臣秀吉の命を受けて小西行長・加藤清正が天草五人衆を掃討するために攻め込んできた『天正の天草合戦』で、天草氏の客将木山弾正(きやまだんじょう)が加藤清正と直接槍をとって対決した古戦場だ。大将同士が槍をもって直接勝敗を決するという例はとても珍しいそうだ。結果は清正の勝利。弾正は天草氏への恩義を貫いて果てた。しかし『名勝 仏木坂』の看板には木山弾正は「(志岐)麟泉の客将」とある。腑に落ちない…
すぐ近くに「木山弾正無念坂」という看板が出ている。こちらには「本戸城の客将」とあり、誰の客将とは書いてない。
20年前のこの看板は新しくてきれいだったが、場所を間違ったかと思うくらいの変わりようだ。枠は朽ちかけ、文字はところどころ消えている。
説明冒頭に「お試し下さい 車がひとりでにバックします」とある。下り坂なのに車が後ろに動くそうで、木山弾正の無念がなせる不思議ということだろう。この怪奇現象について調査した人がいる。『立命館大学総合心理学部』『坂道錯視7』で検索してみて欲しい。上り坂と下り坂が逆に見える『坂道錯視』の現場としてこの坂を取り上げている。他にも全国の錯視現場を調査してメカニズムにも触れているので面白い。現在のところ『坂道錯視28』まである。
話を元に戻そう。誰の客将か以前に、木山弾正とは誰なのか。『弾正』というのは元々官位の名で『木山弾正』は今風に言うと『木山部長』みたいな感じ。名前が『部長』?さすがに変だ。司馬遼太郎の『街道をゆく17 島原・天草の諸道』には、木山弾正は『肥後赤井城主だった木山弾正惟久(これひさ)』と書かれている…う〜む。こうなったら赤井城に行って確かめるしかない!
ということでまたまたやってきた益城町役場。このあたりは「木山郷」らしい。
すぐ生涯学習課に行って学芸員の方にお話を伺う。木山氏の本拠地だったとされる木山城跡も、その支城だったという赤井城跡も生涯学習課の窓から見えた。簡単に行けそうだ。
木山氏は九州の名族阿蘇氏の系譜をひく国衆で本拠地は木山城。その支城として築かれたのが赤井城で、築城から38年後の天正13年(1585年)に薩摩の島津の襲撃を受け木山城と共に落城した。木山惟久は島津襲撃当時、すでに子の信連(のぶつら)に城主の座を譲り、出家の体で上洛していた。落城時に赤井城を守っていたのは伊藤与左衛門という武将だそうだ。では木山弾正は誰?
信連の従弟の『木山弾正正親』(まさちか)がその人らしい。彼は落城の際城に火をかけ、外戚関係だった天草氏を頼って落ち延びた。彼が火をかけたのが木山城なのか赤井城なのかははっきりしないが、時間軸から考えると木山城だったのではないか。城主の木山信連は自刃とみせかけて中津の黒田氏を頼って逃亡し、その後連歌師として活躍した。
連歌とは、短歌の上の句と下の句を二人以上で 5・7・5 と 7・7 をいくつもつなげて詠んでいく形式の文学。当時は貴族・武士・庶民を問わず全国的に大流行し、連歌師というプロも生まれた。惟久も信連も連歌師として活躍したというので、武より文の方が性に合っていたのだろう。こうして国衆としての木山氏は消滅したが、流行作家として送った惟久らの半生は、自分らしさをかみしめた幸せなものだったのではないだろうか。家柄よりも自分の才能を活かす道を選んだその人生は今の時代に通じると思う。
天草氏(天草種元と言われる)は木山弾正を厚遇し本戸城に住まわせた。亡命から四年後の天草合戦。小西行長の援軍として海路天草に入った加藤清正は志岐麟泉が守る志岐城を目指す。志岐城から木山弾正にも出陣要請が来る。彼は天草氏への恩に報いるためには「清正を倒して討ち死にするしかない」と思い定めたらしい。志岐城に籠城するつもりはない。志岐城へのルート上にあって志岐城も清正軍も見下ろせる仏木坂に陣を張って清正を迎え撃った。
清正は単に豪傑というだけの人物ではなかったようだ。冷静な洞察力で戦の展開を読み、みずからの命を顧みないリーダーシップで総崩れになりかけた自軍を立て直しながら前線に立って攻め上がった。だからこそ仏木坂に陣取る木山弾正と直接対決することになったのだ。
清正を見た木山弾正は床几を蹴倒して「御大将と見及びたり。木山弾正と申す者也。一鑓仕るべき」と名乗りを上げて槍を突き入れたという。この時代に一騎打ちで名乗りを上げるなど、どこか鎌倉武士っぽい古風な感じがして清々しくもある。そんな木山弾正は織豊時代の新しい秩序に飲み込まれ消えゆく国衆の歴史の、最後のページを飾った一人と言えるだろう。彼は今本戸城に眠る。
そんなことを考えながら益城町木山を歩く。
本渡でも木山姓は多いが、こちらはもっと多そうだ。商店街も木山がずらり。銀行だって木山支店だ!
木山城跡に行く。春は熊本県の桜の名所としても知られている。
そして赤井城跡に行く。左の方に土塁跡が見て取れる。結構保存状態が良いように見える。
今は北東側から赤井城跡を見ている。これから画面右の影があるところを歩いてみる。
ここは堀が二重になっていて、外側の堀は浮草堀と呼ばれている。写真は浮草堀。この堀に草をかぶせて隠しておけば向こうに見える堀に目が行って「落とし穴」になる。しかし薩摩は祭りの日に急襲したらしいので、堀を草で隠す時間があったのかどうか。
南西の方角に行った。「そうめん滝」という伏流水の湧き出るところがある。この水はそのまま飲める清流だそうだ。トンネルはお城の遺構とは関係ないらしい。
赤井城に上る。途中小さなトンネルがあった。右と左の穴は奥の数メートルのところでつながっていて、途中人一人がすっぽり入るくらいのくぼみが二つあった。地元の人に確認してみると、思った通り『防空壕』の跡だった。こんなのどかな田園地帯まで空襲があったんだ…
この赤い色の岩は宇土市にある馬門石(関連記事はこちら)と同じ9万年前のASO-4の溶結凝灰岩だと思われるが、内包しているガスが発泡して軽石みたいになってもろいので建材には使えそうにない。微妙な条件の違いで石の性格が変わるんだな。
赤井城頂上の日枝神社への参道。先の地震はこの近くが震央だったので相当揺れたのだろう、石垣が崩れている。鳥居も社殿もロープで固定してある。
頂上からあたりを展望してみたが木々の勢いの方が勝っていてあまり景色が見えない。葉が落ちかけた銀杏の隙間越しに田園風景が垣間見える。
益城町をいったん征服した島津だが、豊臣秀吉の九州攻めに抗しきれず退散した。そして木山弾正が仏木坂で敗れた後、木山郷は加藤清正の領地となった。木山弾正正親は”義”に殉じて正々堂々と武士の本懐を果たした。清正に恨みなどなかったろう。むしろ木山郷が加藤清正の領地になったことを良しとしているかもしれない。今回の旅でそう思った。
益城町は2014年に大地震に襲われたが、地元の人々は後世のために地震の記録を大切に保存している(関連記事はこちら)。前回訪れたときは天草との関連など想像もしなかったが、身近に感じるようになった気がする。2023年12月8日
]]>ブログを更新している時にメールが来た。11月30日をもって日本体操協会の公式チケットサイト『チケGYM』を閉じるそうだ。サービスは昨日で終わり。驚いた。ちょっとだけ脇道に逸れて本件について一言。
スポーツ界にも変化の波が押し寄せてきて、少子化に加え娯楽の多様化と企業価値観の変化が追い打ちをかけ、プロリーグを持たないオリンピック種目は厳しい状況になってきたらしい。日本体操協会もスポンサーが離れて2期連続の赤字見込み。サイト閉鎖は経費節減の一環なのだろう。天草移住前の2016年4月、夏にリオ五輪を控えた全日本体操競技選手権最終日。男子では内村航平選手や白井健三選手らがいて国内で世界最高の技と演技を見られた。チケット入手は難しく、チケGYMで自由席を手に入れるのがやっとだった。
試合は男子個人総合5種目終了時点で白井選手がわずかにリードして逃げ切るかに見えたが、会場が静まり返る中で最終鉄棒の演技をした内村選手が逆転して王座を守った。女子は村上茉愛選手が優勝。表彰式の後、男女のメダリストが記念撮影していた姿がなつかしい。
8月のリオデジャネイロオリンピックでの大活躍も今は昔、時代の流れには逆らえない。でも百年に一人というくらいの名選手の美しい演技をじかに見ることができて一生の思い出になった。さよならチケGYM。
さて本題に戻る。小春日和に上天草市竜ヶ岳町を訪ねてみた。高台にある大道小学校跡に上り、かつて子供たちが毎日見ていたであろう校庭からの景色を眺めてみた。海が湖のように見える。
目の前にたたずんでいる集落から散策するとしよう。
小学校跡の坂を下るとすぐに港に出た。池の浦の港と町並み。
ちょうど沖を御所浦行きのフェリーが通過中だった。
かつてのJA跡には緑の公衆電話ボックスが残っている。
三十年ほどタイムスリップしたような感じ。
郵便局を過ぎると名物のアコウの木のトンネルがある。
こんな感じで木のアーチをくぐり抜ける。木の精霊の祝福がありそう!
実は、池の浦にはかつて近くにもう一つアコウのアーチがあった。2017年に当地を訪れた時には元旅館の庭みたいなところにアコウの巨木があって道にアーチをかけていたのだが、年ごとに狂暴化する台風で倒される危険が出てきて伐採された。今では名残の切株だけが残っている。
アーチを抜けてお隣の集落「唐網代」へ。途中で見える倉岳の山々。
岬を曲がればすぐ唐網代港。防波堤越しに横浦島の与一が浦港がすぐ近くに見える。
写真では近さを感じにくいが、ちょっと倍率を上げればこんな感じに見える。近い。
こちら側は穏やかだけど、横浦側は風があるようだ。
港の堤防には釣り人がいっぱい。木っ端グロ狙いのウキ釣りやアオリイカ狙いのエギングなどさまざま。
見ているうちに20センチくらいのクロ(メジナ)が上がった。楽しそう。
釣り人たちが堤防に上がるとき使っているブロック。相当年季が入っている。
舟屋みたいな鉄工所。引き込み線路がいい。
肩を寄せ合っている集落。よく見ると一番上のお宅までのぼり道がある。
登ってみると、隣の池の浦集落まで抜ける道になっていた。集落を見下ろすように立つ半鐘塔。使う機会がないことを祈る。向こうに倉岳山が見える。
坂を池の浦側に降りて、改めて大道小学校方面を振り返る。街並みの向こうに町のシンボル龍ヶ岳がのぞいていた。
龍ヶ岳には他にも面白いアコウの木がある。樋島には神社の鳥居みたいになった木と大岩を抱えて飛び立っているような木がある(関連記事はこちら)。どれも一見の価値あり。 2023年12月1日
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天草ででんきと言えば苓北火力発電所。今年の一般公開に行ってみた。実は以前「志岐炭鉱産の状態の良いキラ炭のサンプルが九電苓北発電所に展示してある」と聞いていたもので…それを見ようと思って。
11月18日。北西の風が8メートルと荒れ模様。鬼池を越したあたりで見た沖の灯台が波に洗われていた。
道路に直接波のしぶきが飛んで来て車のフロントグラスは塩で真っ白。ウォッシャー液で洗いながらの走行となってしまった。
やっと発電所に到着。敷地内から見上げるとでかさが際立つ。
イベント会場には親子連れがずらり。こども科学イベントといった感じ。
会場には発電の余熱を利用して製造した天然塩とか、ちゃんぽんの店とかも出店している。
発電所見学の申し込みに行ってみたが… 屋内見学は1時間40分待ち。屋外の見学はその後ということであえなく断念。お目当ては志岐炭鉱のキラ炭サンプルなんだから、ま、いいか。
展示室を何度見回してもオーストラリア産の巨大な石炭サンプル以外見当たらない。見学受付の社員さんに聞いてみても「よくわかりませんので誰かに聞いてみます」という返事だけで何もしてくれない。らちが明かないので外に出て他の社員さんに聞きまくる。しかし誰も天草産石炭のサンプルは見たことがないという。「きっと誰かがオーストラリア産石炭のことをキラ炭だと勘違いしたのだろう」ということになった。がっかりしているところにちょうど焼きあがったさつま芋がふるまわれた。焼き芋を食べて、気を取り直して改めて展示コーナーを見学。オーストラリア産石炭は触ることができたので持ってみるとキラ炭なみに軽く、状態の良い石炭だった。
帰りにアンケート回答して、駄菓子に九電絆創膏や九電ボールペンが入ったお土産袋をもらった。発電所見学はまた来年出直すことにした。
苓北と言えばレタスの産地。道沿いではすでに一部で収穫が始まっている。
レタス栽培はもともとは米の裏作として始まったそうだが、「今ではレタスの裏作として米を作っている感じ」と農協の方がおっしゃっていたことを思い出す。
レタスは季節によって産地が動いてゆく。下の表は「ベジ探」の令和元年の産地別入荷実績。夏場は涼しい長野・群馬がほぼ全量を占めるが、秋に茨城に移って冬は静岡・香川に代わる。春はまた茨城に戻って長野・群馬に戻る。これを『レタスサイクル』と言うらしい。特に冬場は暖かい産地が”群雄割拠”状態になる。苓北もその中のメンバー。
近くのレタス畑にミストが立ち昇っていた。
レタスの給水装置のミストだった。やがて農家の人がやってきて給水状態を確かめてからミストを止めた。設備導入は大変だけど、これが遠隔監視・遠隔操作できるようになれば効率上がるよなぁ。
これから苓北レタスは最盛期。苓北のあちこちで収穫風景が見られるようになる。
帰りは海沿いを避けて県道44号線を使って仏木坂を越え、東向寺方面に抜けることにした。”にしきラーメン”の隣から44号線に入る。
山道をしばらく走っていると風力発電の羽が見えてくる。3基ある。1つは道路わきで回っている。電気を作る装置はみなでかい。天草灘がしけている天気だからよく回っている。風切音が聞こえる。
上では力強く風車が回っているのに、このあたりは風裏らしく風が弱い。すぐ近くにため池があって、2基目の風車が湖面に映っている。
池のほとりに「苓北は火力だけでなく再生可能エネルギーも活用しているんですよ。」というボードが出ていた。こんな風景を見ているとCO2も何も出さない理想の発電のように感じる。しかし出力が安定しないのでどう補完してゆくかという難しい問題がある。また10年ほど前には風車の出す耳に聞こえない低周波音が睡眠障害を引き起こすとかいろいろネガティブな報道があったことも事実。冬型の気圧配置が強まって気温が下がってきた今、この難しい問題が余計に難しく思える… 2023年11月24日
]]>天草には町単位や地区単位でお祭りがある。10月から11月にかけての週末は各地のお祭ラッシュだ。倉岳町の棚底諏訪神社の例大祭(記事はこちら)もその一つ。今回は隣町の栖本町の栖本諏訪神社の秋の例大祭に出掛けた。
栖本といえば2009年の『全国青年大会』の『郷土芸能・民俗芸能の部』で見事最優秀賞を獲得した『栖本太鼓踊り』が有名。最優秀賞はその38年前にも獲得しているというから驚きだ。
11月12日。10時頃の諏訪神社。静かな境内に参拝客がちらほら。
国道を挟んだ港の空き地には屋台が並んでいた。
筆者が小学生の頃は棚底諏訪神社の参道に屋台がずらりと並んでいた。人も子供も多く賑わっていた。コロナ直前は2軒ほど出ていたが、再開した今年は出ていなかった。一番のお客さんである子供が激減し、追い打ちをかけるようにコロナに襲われた。全国的にイベントが取りやめになる中、業者さんの苦労もいかほどのものだったか。お祭に屋台が来ないと寂しいものだ。勝手ながら残ってほしい風景だと思う。
神社付近で聞き込みの結果、神様は前の晩に元諏訪神社に御下りされていて、今日午後一時にそこから出発して諏訪神社に戻られるとのことだ。
11時を過ぎると行列参加者の姿があちこちに。ファミリーマートには獅子舞の一団、養護老人ホーム梅寿荘の駐車場には太鼓の一団。太鼓の人に元諏訪神社の場所とルートを尋ねたら舞の予定場所まで丁寧に教えてくれた。
いったん元諏訪神社の場所を確認しておく。まだ人の姿はないが、金色に輝くお神輿が神々しい。
それにしても鳥居の手前に不思議な三輪車があるが何だろう?
車を駐車場に止めて12時半に元諏訪神社に到着する。近くの農家の庭先で既に太鼓の音が響いている。やがて太鼓が神社に移り奉納太鼓が始まった。ここでも篠笛はCool!
行列は出発の準備が出来ている。出発の合図を待つ。先頭は子供神輿。
予定より15分ほど早く行列が出発した。総勢百人規模の大行列。見事だ。
挟箱、鳥毛、熊毛、槍…規模がでかい。そのうちお神輿が見えてきた。
謎の三輪車は神輿の台車だったんだ!ハンドルは付いているがブレーキは付いてないみたい。これだけの数が揃っていてもお神輿を担ぐ人手までは回らないんだ…
行列は市役所栖本支所前の天満宮に立ち寄った。ここで太鼓踊りと獅子舞、台傘と立傘の掛け合い「とったかとこせい」などが披露される。とったか→太鼓踊り→獅子舞の順に奉納される。
最初は「とったかとこせい」。
掛け合いの話の内容はうまく聞き取れなかったが、アドリブ混じりのコントっぽい。
続いて太鼓踊り。太鼓を筆頭に華麗なバチさばきをしながらステップを踏んで踊りながら境内に入る。
圧倒される迫力。
日本一はダテじゃない!
圧巻の12分だった。いやぁカッコいい!
続いて獅子舞。全部調べたわけではないが、天草の獅子舞には銅鑼(ドラ)が使われる。その音色も地域で違って面白い。棚底では銅鑼と篠笛だが、栖本では銅鑼と太鼓(テレツクテン、のあの太鼓)が使われて笛はない。
このあたりでは「獅子釣り」を「玉振り」と呼ぶ。その名の通り寝ている獅子を玉を振ってからかって躍らせるというストーリー。獅子も最初は「お前を食ってやろうか!」みたいに威圧的に玉振りの周りをうろついたりしてリアルな表現が面白い。さらにここの玉振りは足技も披露する。
おしまいに玉振りが獅子の背中に乗って退場となる。
これだけでも十分楽しめるが、まだ道半ば。最後に諏訪神社に登って奉納するまで祭は続く。橋を渡るときは鳥毛を寝せる。
しんがりは太鼓。幟を持つのは外人さん。道中も太鼓は続く。相当な運動量だ。頑張れ!
諏訪神社にお神輿が戻られた。これからとったか、太鼓、獅子舞と奉納される。
「とったか」では観客の「声んこまかぞ!」(声が小さいぞ!)のヤジに「もうだれた」(もう疲れた)と返事をして笑いを誘っていた。本当に体力を使い果たしたんだな…
次は太鼓踊り。息が合った舞と太鼓の躍動感。中間の舞は太鼓を囲んで。テンポを落として舞手にしばし息を整えてもらう。この知恵も伝統なのだろう。
太鼓を持ち上げてクライマックスへ。
叩き手が舞いながらお堂の裏(ここがステージの袖に当たる)に消えてゆく。笛の巫女さんたちが続く。道中ほとんど叩きづくめ吹きづくめだった皆さん、本当にお疲れ様でした。素晴らしい舞をありがとう!
二百年、三百年と受け継がれてきたお祭りは地区ごとに特色があって面白い。どれも貴重な民俗遺産であって消してはならないものだと思う。しかし天草市そのものが消滅の危機に瀕する今、十年後にお祭が残っている保証はない。日本一の太鼓踊りを持つ栖本のお祭りだって神輿は台車に乗せて太鼓の打ち手を確保している。もはや移住やUターンに頼っている場合ではないかもしれない。祭りに賛同してくれる人にこの時期だけ日本各地、できれば世界各地から集まってもらうような取り組みでもしなければそう遠くない将来に消滅してしまう。手を打つなら今だ。 2023年11月17日
]]>宇土市の住吉海岸には海苔養殖の支柱がずらりと並んでいて壮観だ。その間に船や貝を採る漁師さんたちの姿が見える。有明海の秋の風物詩。
一方不知火海の秋の風物詩と言えばシラス漁。天草市栖本漁港と御所浦町の黒島との間の海にシラス漁船が集結していた。数えてみたらざっと18艘の船がいた。網を曳く船が2艘見張り兼獲物回収が1艘の計3艘で1チームだとすると、6チームいたことになる。
不知火海の全シラス漁船が集まっているような感じ。狭い海にぎっしりと船団がいるので、横切って向こうに行きたいのだがどこを走っても誰かの網に引っ掛かりそうで威圧感半端ない。早朝から午後まで長時間引いている。何となく根こそぎさらっているような感じで、SDGsとはちょっと…
三角から天草に入る。一号橋の北詰にレストランがある。
「カフェ点」。建物の天草側に駐車場がある。金曜日から月曜日までオープン。
ちょっと休憩したりお昼をいただくにはよいお店だ。席からの眺めがいい。
海鮮料理はないが、手作り感満載でほっとするメニューが揃っている。
国道266号線を松島町の知十橋から教良木方面に入る。このところの晴天続きで教良木ダム湖の水位は2メートルほど下がっているが、冷え込んだ朝には湖面に水蒸気が立ち昇るようになった。
もうカモの先発隊が渡ってきていた。これから種類も数もどんどん増えてゆくんだろうな。そのうちオシドリもやってくるだろう(関連記事はこちら)。
教良木を越えて再び海が見えてくる。棚底湾だ。その真ん中に浮かぶ小島様の、穏やかな11月の朝。
国道266号線を本渡方面に走っていると白い三角の標識がある。海岸で見かけるこの標識は、海底ケーブルの目印だとか水道管の目印だとか諸説あるけど本当は何なの?たまたま作業をしている人がいたのでUターンして尋ねてみることにした。
係の人はお昼を食べ終わって休憩しているところだった。「こんにちは。お休みのところすみませんが、この標識は何なのですか?」「こりゃ海底通信ケーブルの印です。標識が二つあって、海から重なって見ゆる線の下にケーブルが敷いてあるけん、錨ば入れる船は用心せろという意味ですたい」。な〜るほどぉ!知らんかった!確かに高さが違う標識が二本ある。
今年も台風が接近した時にはこの付近に避難して投錨している船が3隻いた(関連記事はこちら)。ちゃんとケーブルの位置まで確認していたんだな…
御所浦航路でもちょくちょく見かけるこの標識。次回船に乗ったら三角が重なるようすを体験してみようと思う。2023年11月10日
]]>秋もたけなわの10月。天草各地で見つけた表情を集めてみた。
【宮地岳の秋祭り】
かかしの里は海外や都会からのお客様が(意外にも結構)喜ばれる。リアル秋祭りは天草の地区ごとに少しずつ順番や構成が違うが、宮地岳のはこのような隊列になっているようだ。
【モンサンミッシェルの秋祭り】
天草市栖本町の弁天島。10月15日は新月の大潮。満潮の時は写真の通り参道が水没して歩いて渡れない。潮が引くまで岸で待とう。
【秋晴れの教会】
10月1日、父母と息子夫婦と孫たちを連れて訪れた崎津。ちょうど漁船が天主堂の正面を通過中だった。もし漁船が『手漕ぎ舟』だったら昭和にタイムスリップしそう。
【秋のよそおい】
JAのとれたて市場。10月にはいると果物売り場は早生みかん一色に染まる。奥にはグリーンレモンとかカボスもあったりする。
【秋の夜長は気長に待つニャ】
10月12日、祭りの練習を取材する時に通った宵の口の棚底港。アジゴ釣りの人が数人いた。一人がシャム猫を連れて来ていた。電気ウキが沈んで竿がしなると「ちょうだい」とばかりに反応するところが面白い。
【燃えるトンネル】
倉岳町のえびすビーチの駐車場にある鯛夢トンネル。古代のピラミッドやストーンヘンジなどでは夏至の日にだけ見られる光景があるそうだが、さすがにそこまで計算されてはいないだろう。10月下旬にこんな姿を見せるなんて地元に住んでいても気が付かなかった。
【親戚3種類】
ヒガンバナ科の3種類が揃い咲き。サフランモドキ、タマスダレ、ショウキズイセン
誰が植えたわけでもないのに、黄色、ピンク、白の花が同じアングルに収まった。ただそれだけだけど、なんとなく嬉しい。
【本渡から島原半島が消えちゃった日】
さっきまで島原が手に取るように見えていたのに、急に真っ黒な雲のスクリーンが隠してしまって海の赤い標識がひときわ目立っていた。この後しばらく稲妻が走り、続いてゲリラ豪雨が旧本渡市街を襲った。
【月食後の日の出前】
10月29日、倉岳ウォーク当日の倉岳小学校。部分月食が消えた日の出直前の東の空には光のアーチが現れ、山の切れ目から水平に光がさしている。お日様が「ちょっとそこの山、どいて〜」と言ってるみたい。秋はだんだんと深まってゆく。2023年11月3日
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WANIMAのKENTAさんやKO-SHINさんの故郷として知られる天草市倉岳町。地元で最近話題になっている風景を撮影しに出掛けた。
WANIMAファンがひっきりなしにやって来るパチンコ店跡から100メートルほど棚底側に行ったところに『サニーアウトドアレンタル』(場所はこちら)がある。
店の正面の田んぼにヒマワリがまばらに咲いている。お店の方に許可をいただいてお店の敷地から撮影。花文字が見える。
店の隣の少し高くなっている空き地から角度をつけて眺めると
「ワニマ」だ!作者はWANIMAのボーカルKENTAさんのお父さんだそうだ。文字の間隔がバラついているのはご愛敬。子を思う親ごころが花開いて心が和む。今満開だ。
田んぼの正面にある「サニーアウトドアレンタル」は今年開店したアウトドア用品のレンタルショップ。Mont-bellの製品を主にレンタルしている。
店主の小川さんはバックパッカーとして日本全国を旅した人。日本各地の絶景スポットを知り尽くした小川さんが何故ここ倉岳町にお店を構えることにしたのだろうか?少しお話を伺ってみた。
「倉岳は湖のような不知火海に抱かれた島々の景色が素晴らしい。天草西海岸の夕日も美しいけれど、外洋に面しているところなら日本全国で見られるし特別なものではありません。しかしここの景色は特別です。特に刻々と色を変える夕方の空との組み合わせは素晴らしい。世界で唯一と言っても過言でないくらい。稜線に日が沈み、オレンジ色の残光が半分、薄い青空が半分。それがだんだん暗くなってゆき、星が輝きだす頃には焚火の炎の色に染まる。それだけでお酒が飲めるくらい素敵です。」
小川さんは地元の清掃や草刈りなどのボランティア活動にも積極的に参加されている。住民以上に地域思いかもしれない。
閉店したガソリンスタンド跡を利用した店には、この日テントを展示していた。2ルームあるキャビンテント。今はオートキャンプが主流なので、このタイプのテントが好まれるそうだ。
中を見せていただいた。
奥は寝室になっていてベッドもある。横になると快適!虫も入ってこない。
最近えびすビーチに倉岳サニーオートキャンプ場を開設された(場所はこちら)そうなので見学に行ってみた。266号線からえびすビーチが見える場所に控えめな入口標識がある。
えびすビーチの管理棟の先にある。
水場も整備されている。
キャンプサイトは4つ。
せっかく教えていただいたんだから、空の色の移ろいをキャンプ場から眺めてみることにした。天草西海岸と違って、天草下島の山影に日が落ちてゆく。
やがて日は沈む。太陽の周りだけ赤味が残る。
それにしても何という穏やかな海だろう。まるで湖のようだ。
日が落ちて夕闇が迫って来る。空の青い色も薄れて黄昏時を迎える。
金星がある時はもっと素晴らしい。この時間帯は凪の確率が高い。筆者は毎日のように見ている景色なので心のセンサーの感度が下がっているらしい。初めて見た景色と考えれば確かに感動モノの景色だ。多くの人に見て欲しい。
横浜市の前市長が「夕日と夜景ではリピーターは生まれない」とおっしゃっていたことを思い出すが、ここでキャンプをすれば時間と共に移ろう光、という新たな軸が加わる。まるでモネの睡蓮の連作を眺めているみたいに移ろう光を楽しむ。贅沢な時間だ。
小川さんいわく「日本の方より海外の方の方がこの価値に気づいてくれる可能性が大きい」とのことで、倉岳に移住してきたカナダ人のご夫婦の協力も得て海外からのお客からの予約もあるらしい。そうそう、そのカナダ人ご夫妻もこの倉岳が気に入ってパラグライダーのテイクオフ場を造成したり(手作りで!)、トレイルコースを整備したりしてえびすビーチを発着点としたXアスロン大会を開催していた。残念ながらコロナで中断してから再開できていないけれど…
地元に暮らす人にとって地元の価値は気付きにくいものなのかもしれない。外からの視線で見た彼らが教えてくれた価値。僕らはもっと地元に自信を持って良いのかもしれない。そして彼らと共に盛り上げていきたい。 2023年10月27日
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熊本県天草市倉岳町の棚底地区。コロナで3年連続で中止になっていた棚底諏訪神社の秋祭りが4年ぶりに再開される。住人約千人の52%は高齢者。人口減と高齢化進行のダブルパンチの中、これまで省力化を進めながら規模を縮小して維持してきた。
10月12日(木)18:00
地区の武道場で撮影開始。ここは獅子舞の練習会場。獅子はまだお休み中。少しずつ人が集まり始めた。
1時間ほどでメンバーが揃ったみたい。笛や銅鑼で生演奏しながら練習するらしい。始まる前に伝統の横笛を見せていただいた。
漆が美しい篠笛だ。Japanese traditional fluteと言えば外国の人にも通じるらしい。
獅子が立ち上がって本日一回目の練習開始。笛吹いてる姿もかっこいい!
獅子釣りの小学生が登場。
本番が近いので、通しで舞う。およそ12分後、背中に子供を乗せて2頭の獅子が退場して終了。直後、獅子たちは床に倒れ込んでしばらく動けない。相当な運動量。荒い息が何とか整うと、個々の演技指導が始まった。ステップの踏み方、獅子釣りの位置取り…
10月12日 19:50
2h経過
カメラは諏訪神社に移動する。社殿には煌々と明りが灯っていて中に人がいる。笛と太鼓が響いている。境内にも人影がある。
社殿では太鼓の練習。かつて叩き手は20代から30代の男達だった。今貴重な戦力になっているのは若い女性と子供達だ。「右、右、左!」ガンバレ!
境内では投光器を使って行列の練習。槍や鳥毛を担ぐ人たち。かつての人数の半分もいないそうだが伝統芸能を残そうと指導者が見守る中練習に励む。『胸が熱くなる』思いだ。
練習の休憩時間。3年前に棚底に越してきて今年初めて鳥毛を振るという50代男性は「初日からあちこち筋肉痛になりました」。脚をあげてゆっくり下ろすような歩き方をするので結構きつい。60超えたら無理だと言われるくらいだ。周りとのシンクロにも気を付けなければならない。よくぞ振ってみようと思ってくれた。ありがとう!
10月14日(土) 18:51
49h経過
社殿で神事が始まり神楽が奉納される。神輿様は社殿をお出になって八坂神社に下られ、そこで一夜お過ごしになる。普段は人っ子一人いない山中の八坂神社(地元では祇園様と呼ばれる)に神輿が入られ、太鼓の音が響き渡り賑わっている。
今夜はここで地区の人達が宴をしながら神様と過ごす。
10月15日(日) 11:20
65h経過
我が家の神様の御膳。赤飯と甘酒に自分で釣ってきた鯛のお刺身と尾頭付き煮付。
10月15日 13:00
67h経過
八坂神社で神事が行われ、神楽が奉納される。地元ケーブルテレビも撮影に来ている。
これから神様は神輿に乗って地区内を一周して諏訪神社に戻られる。
13:55
68h経過。
かつて商店や理容店、農協や精米所、食堂が並んでいた地区の中心通りを神輿の行列が行く。
接待所が設けられていて、行列の皆さんは一旦休憩を取る。
15:03
69h経過
浜辺で神楽と獅子舞を奉納する。ここは浜宮と言って、神様がここにあった砂浜が気に入って向かいの御所浦から渡って来られたことに由来するという。しかしその砂浜は中学校のグラウンド拡張のための埋め立てと護岸工事で今はない。
15:50
70h経過
浜宮での獅子舞奉納が終わると神社に戻る。行列の先頭にいる鳥毛や槍が口上を述べて一の鳥居から三の鳥居まで二人一組で掛け声とともに潜って行く。地区によって鳥毛の振りが違う。曙地区の振りは忍者みたいでカッコいい。行列到着直前の静かな一の鳥居から神社を見上げる。
この一の鳥居は昔は二の鳥居だった。海にも参道があって一の鳥居があった。満潮の時は海の中に立っていたそうだ。
行列がくぐって祭りのクライマックス。境内で再び獅子舞を奉納する。浜宮と境内で12分の舞を2本続けるわけで、体力は限界だろう。見せ場の獅子が立ち上がるシーンで片方の獅子が崩れてしまった。でもすぐに立て直して舞を続けた。3年間のブランクが効いているらしい…みな必死で伝統を残そうとしている!
筆者は2018年の祭りを「50年後に残したい風景」と書いた(記事はこちら)。今回も祭りのために集まってくれた若い人もいるが、担える人の減少が速すぎて追いつかない。50年後どころか10年後に残っているのさえ難しいと言わざるを得ない。2023年10月20日
]]>『国天然記念物 布田川断層帯』の看板に従って益城町の中心部方面に入る。右手に湖池屋の大きな工場がある。イセキもあるし大きな企業が多い。益城町役場の前に出た。ちょうど9時だったので立ち寄って場所を聞くことにした。総合受付で相談して「生涯学習課」に伺う。
2016年の熊本地震の時に地表に現れた断層の顕著な3つが国指定文化財(天然記念物)に指定された(2018年2月)そうだ。地震直後から応急的な保存措置が取られたことで保存の状態が良かったことも評価されたのだろう。地震発生から2年未満で指定するというスピードにも驚いた。やれば出来るじゃん。
地図を頼りに県道28号線を空港方面に戻るように進む。案内標識を見落とさないようにすればちゃんと現地に行けるようだ。注意深く標識を見つけて最初の断層「谷川地区」(たにごうちく)に着いた。駐車場がある。ここから徒歩で少し歩く。
案内板もきちんと整備されている。
現地は整備されてはいるが、やはり地震の現場なので生々しい。
振り返ると建物の下を断層が走った小屋。よく倒壊しなかったものだ。屋根を付け、梁で支え、ワイヤで補強して建物を当時のまま保っている。
左に見えているコンクリートの基礎は写真の中の写真にあるお宅の玄関だったところ。保存のための工事はまだ完了していないのでシートをかけてあるが、驚く光景だ。
この断層は『共役関係の断層』というもので、地表に現れて直接観察できる例はとても珍しいらしい。当然筆者も初めて見た。
図の説明だけだとメカニズムがよく分からない…この断層の立体的な構造図が欲しいな。
二番目の「堂園地区」に向かう。元の県道に戻って空港方面に走る。でも一度標識を見た後は簡単に見つかる。矢印に副って脇道に入ってすぐのところに駐車場があった。
のどかな田園風景。矢印の方に行ってみる。
なるほど、ここを横ずれ断層が走ったのか…一目瞭然。
断層でずれた畦道を、地主さんが『地震の記憶を留めるため』にあえて残しているそうだ。この意思も天然記念物指定を後押ししたに違いない。
筆者は名古屋単身赴任時代に、1891年(明治24年)に発生した濃尾地震(M8.0)で岐阜県の根尾谷に現れた最大段差6m、最大水平変位8mにも及ぶ大断層を訪れたことがあるが、痕跡が風雨で分かりにくくなっていた。益城の皆さんが地震発生直後の困難な時期から「記録として残さなきゃ」と行動されたことに敬意を表したい。
三番目は「杉堂地区」。ここは阿蘇の伏流水が湧き出る水源に祀られた潮井神社の境内。参道に断層が現れた。現在も工事中で危険なので、よくニュースで流れた神社の様子は下からの撮影が難しい。付近の横ずれ具合が見える安全な場所から撮影した。手摺が破損した参道を上部から見たところ。
熊本地震の被害を思うと心が痛むが、日本ならどこだってこのような地震が起きる可能性があると考えるべきだろう。地震のありのままの姿を見ておくことは決して無駄なことではないと思う。 2023年10月13日
]]>ご存知「シードーナツ」は天草にただ一つの水族館。ウチの子供たちは孫を連れて遊びに来るたびに行くのだけどなぜだろう?それは少しずつ趣向を変えながら飽きさせずに楽しませようとしている姿にあるようだ。手作り感があってほのぼのとした温か味が魅力だけど、”温か味”から”熱意”にシフトしているように感じる。
土日にはシーガーデン隣接のアスレチックコーナーにクマモンのドームが出現して大勢の子供達で賑わっている。
シードーナツに行くには徒歩かイルカバスに乗って。歩いても大した距離ではないがイルカバスがお薦め。一人百円で幼児は無料。子供は喜ぶし年寄は楽だ。バスには運転手がいない。呼び出しボタンで呼ぶと原付に乗った運転係が急行して数分で来る。これだけでも百円分のアトラクションになっていると思う。
入場料は大人1400円。ゲートを潜るとすぐにカメさんコーナーが二つ。リクガメとウミガメ。リクガメは砂場に、ウミガメは水槽に。近頃増設されたものだ。ウミガメ水槽にはアカウミガメとアオウミガメとタイマイがいる。『アカウミガメアオウミガメ』と早く言うと早口言葉になりそう。
ドーナツ本体に渡る橋の入り口にこんな看板が…
写真はシードーナツの看板犬「きなこ」。こう書いてある。
「しょぼかったね。」
そう思わないための
シードーナツの楽しみ方
?時間は気にしない
?周囲は気にしない
?細かいことは気にしない ← 一番大事
噴き出してしまった。堂々と自虐ネタで直球勝負!いやいや面白い。
シードーナツに移動。久しぶりにきなこと再会。元気そうで何より。
この日のきなこは何となく「His master's voice」のJVCの犬を連想させる。右の小屋にはコムギちゃんが寝ている。散歩の時間になれば二人とも留守になるそうだ。
中は明るく改装されていて気持ちがいい。展示されている魚も少しずつ変わっている。クラゲコーナーも出来ていて、人気水族館のいいとこどりも意識しているように見える。大人気の「チンアナゴ」も「カクレクマノミ」も「タツノオトシゴ」もいる。一般的に食用になる魚の水槽下には美味しくいただくための料理のコツやレシピも掲示されていてシュールさも兼ね備えている。まずは行ってみるべし。
展望台から見たパールガーデン。
中の見学が終わったらアトラクションへ。目玉はバンドウイルカとの触れ合いタイム。毎日11時、13時、15時に行われ、開始15分前までに予約をする必要がある。一人500円、子供とその同伴者は無料。みんなお待ちかねの中、イルカはアップを始めた。
気になったのはシードーナツの外にいるお兄さん。向こうの浜辺にポツンと何をしているのかな?
ショーが始まる前にプールのゲートが開けられ、イルカが一頭出て行った。そしてお兄さんと遊んでいる(訓練してる?)。
中に残ったイルカが触れ合いのホスト。それぞれ一分ほどづつヒレやお腹を触ったり頭を撫でたりして最後にご褒美の魚をあげる。イルカ帽子を被ったトレーナーのお嬢さんが来てアトラクションスタート。
体験した人にインタビューするとイルカの体はツルッツルだそうだ。
この回最後の体験チーム。何かの取材か撮影みたい。
最後の組が終わるとジャンプを披露。結構高く飛ぶ。これで楽しいアトラクションは終わり。みんな楽しめたようだ。
帰りはバスを使わないで歩いてみた。なんと途中に与謝野鉄幹晶子夫妻の歌碑があった。歩いて行けばバスでは気づかなかったものも見える、ということなんだな。
いかがでした?シードーナツ。今なら三角の魔女帽を被った係の人を見かけたら”Trick-Or-Treat”と声をかけると景品がもらえるそうだ。是非トライしてほしい。
「きなこ」は予想以上に人気で、周遊バスのお客様に「しょぼかったね」パネルの写真を見せたところ、本物のきなこに会えるなら明日行ってみるという人もいた。皆さんも訪問して、知ってる人に情報発信しよう! 2023年10月6日
]]>さて今回の上京で出会った風景を点描してみる。
結婚式の出がけに乗ったバス。『つり革や手すりにつかまる必要性』を直感的に示したうまいイラスト。
次は合羽橋で出会ったなつかしい前掛け。半世紀前、近所の店のおじさんもこんな前掛けしてたな。醤油のロゴが入ってた。
合羽橋の帰りに浅草寺に寄った。浅草演芸ホール前を通って伝法院通り方面に歩くと昼間から飲み屋が大盛況。外国人も多い。ついふらりと立ち寄りたくなる。おっと我慢、我慢…
賑やかさを取り戻した仲見世通りを抜けて観音様へ。熱中症厳重警戒の平日の夕方だと言うのに結構賑わっている。半分以上は外国人観光客。
観音様に『二礼二拍手一礼』してる人が結構いて、外国人かと思ったら日本人も多かった。でも大丈夫、観音様のお慈悲は深いから。
式の翌日、ちょっと空いた時間を利用して国立科学博物館へ。
特別企画展『海』を見に行ったけど連休最終日だった…混雑のため入場制限、一時間半待ち。出掛ける前に予約すればよかった…
待ち時間を入れると見学時間があまり取れない。せめて常設展を見て帰ることにした。入場券売り場に行くと『シニア(65歳以上)は0円』とある。歳を取ると物忘れはするわ体の反応が鈍くなるわ、ろくなことはないけれど、たまにはいいこともあるんだ!でも今日は身分証明書を持ってきてない。「シニアは身分証明書がいるんでしょ?」「いいえ、係の者に言っていただければ大丈夫です」と言われて入場係の人に申告すると「昭和何年のお生まれですか?」「33年です」「どうぞ」。こんだけ〜?
中に入ると…感動ものだった!親子連れで大盛況!恐竜だけじゃなくて地下3階の物質の成り立ちのコーナーも盛況!私の好きな『霧箱』にもひっきりなしに見学者が来た。ヤンキーなお父さんも息子を連れて来ているし、若いカップルも多数。みんな、これからの日本を頼む…ちょっとうるっとなってしまった…
近所で見かけたナンバープレート。分類番号にアルファベットが入っている。5年前から交付が始まって、時々見かけるようになったけど、まだレアだ。
いよいよ熊本へ帰る日。東京駅から直行バスで成田に行くので、早めに家を出て東京駅のステーションギャラリーに立ち寄る。
丸の内北口。ステーションギャラリーの入口分かります?「土地活用」の看板のすぐ左下。
天井を見上げると駅のシンボルのドーム。
入口前に立ってやっと「ここだ」と分かる。
レトロな雰囲気の階段を上る。壁には古いレールも残っている。
なんとこれ、国の重要文化財なんです。
文化財を利用した美術館なんて考えたもんだな。美術展も良かったけど建物自体がなかなかいい。
成田へのバスは料金がいきなり3割上がっていた。ついこの前まで1000円だったのが、先週から1300円になっていたのには驚いた。ま、仕方ないか。ぐっすり眠って目が覚めたら成田だった。
Jetstarにしては珍しく定刻通りに機内に案内された。しかしそこからが悲劇の始まり。離陸順番待ちで40分も滑走路で待つことに。昔シカゴのオヘア空港で同じ目に遭ったことがある。なにせ一日2000便が発着する空港だったから覚悟が必要だった。でも成田は2000便も発着するんだっけ…?
乗客からもパイロットからも航空会社からも評判が悪くてアジアのハブ空港の座を仁川に奪われて早30年。没落日本の象徴とさえ揶揄された成田空港。
でもいいこともあった。エミレーツが持つエアバスA380(二階建て旅客機)。A380は初めて見た!
実は全日空も1機持ってるんだよね。それも見てみたいよね。
本当に慌ただしい一週間だった。今日は上海に駐在している子供が孫を連れて久しぶりに帰国&天草にやって来る!2023年9月29日
]]>式で再会する親戚へのお土産を買いにかっぱ橋道具街に立ち寄った。なぜかっぱ橋で?それは後半に詳細に。
道具街のシンボル、ニイミ洋食器店のジャンボコックと再会。お久しぶり、元気そうで何より!
浅草寺が近くということもあって外国人の姿が目立つ。でも意外と『観光というより目的があって』合羽橋に来ている人が多いように見受けられる。真剣に物色しているのはもっぱら外国人。
調理に関する道具は和洋中何でも揃うと言われる。直接調理に関係なくても、こんな専門店もある。
キーホルダーが一つ欲しいので食品サンプルのお店へ。観光客にとても人気がある。料理、寿司、果物、魚、飲み物、どれもすごい出来栄えだ。
マグロの握り鮨のキーホルダーを自分用に一個買った。税込900円なり。
途中の路地からはスカイツリーも望める。
せっかく合羽橋に来たのだから、小出刃のいいのがないか探してみた。包丁の専門店は数軒あった。日本の包丁は海外でも人気というが、入ってみて驚いた。どの店も外国人客が多数派で真剣に品定めしている。今の店員はバイリンガルで商品説明はもっぱら英語。時々中国語も聞こえる。
昔は外国人客は少なかった。店主は一人で店番していて、こちらから聞かないと何も説明してくれない。説明し始めると商品知識は豊富で深くて聞いていて楽しかった。今のバイリンガル店員は商品知識は豊富でも、うんちくまでは語れないみたい。
筆者が40年前に出刃包丁を買った店は、3坪ほどの店に当時店主が一人いた。和包丁の種類は豊富で、ウナギやハモ用の見たこともない専用包丁までズラリと並んでいた。今は若いバイリンガル店員が5人もいて、品揃えも当時の面影はなく、出刃や柳葉の種類も減っていて三徳包丁とか牛刀とか一般的な包丁がやたらと目立つ。これも時代の流れだろう。あるいは”進化”と言うべきかもしれないけれど…
当時筆者が買った出刃は6千円、今も愛用している。現在の商品と比較してみると当時の10倍くらいになっているようだ。しかも今のものより丁寧に鍛えてあり、柄に巻いた桂は水牛の角だ。恐らく今では手に入らない物だろう。大切に使おう。
手持ちの出刃包丁と同じ感じの両刃の小出刃が欲しかったのだけれど、結局自分の出刃が昔のすごく良い品だったことが分かっただけで欲しい小出刃には巡り合えなかった。「何でも揃う」というのは昔の話、今は売れ筋中心に大量に販売するという方針に変わったように感じられる。
道具街から浅草東本願寺方面に入ったところに『出町久屋』という店がオープンしている。
この店は、熊本のフンドーダイ醤油のアンテナショップ。
お目当ては『透明醤油』。子供が食べこぼしてもシミにならない醤油が出来ないかというのが開発のきっかけだったそうだ。色素成分だけ濾しとった無色透明な醤油。味見したが、普通の九州醤油だが透明なので塩分が強めに感じられた。でも一般的な九州醤油と変わらない(関東より1%程低い)そうだ。素材の色を活かしたい料理にはピッタリだそうだ。5年前に亡くなった親日家でフランスの世界的名シェフ、ジョエル・ロブション氏の影響もあって、欧州では隠し味に醤油を使うシェフが増えているそうだが、透明醤油だと色の変化がないので喜ばれるんじゃないかな。
アンテナショップだけあっていろいろな商品を試食できる。
式で再会する兄妹に話題のお土産として『透明醤油』を人数分購入。レシピも入れていただいた。
天草のオリーブリーフが入ったゴルゴンゾーラドレッシングも気に入ったので買おうとしたが、これらの商品は熊本の本店でも販売しているそうなので飛行機の重量制限に引っ掛からないようにそちらで購入することにした。
結構メディアで取り上げられているので混雑を覚悟していたが、たまたまゲリラ豪雨に遭って客足が途絶えたところに入店できたので説明スタッフさんを独占することができた。会計を済ます頃には雨も上がって次々に客が入っていた。
連休の結婚式で親戚と再会し、おみやも渡せた。実に楽しかった。 2023年9月22日
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普段は参道を歩いて渡れる天草市栖本町の弁天島。普段の大潮の満潮でも長靴を履けば歩いて弁天様にお参りできるが、今回の潮では泳いで渡るしかない。”天草のモンサンミッシェル”と呼ぼう。
モンサンミッシェルがあるサン・マロ湾は干満差が15メートルにも及ぶそうだが、日本では有明海の6メートル強が最大。ちなみに不知火海では4メートル強。日本海側はあまり動かない。
地元の港もいつもと様子が違う。港に普通に船が係留してあるように見えるが、岸壁から離れ過ぎているように見える。
下は同じ場所で潮が引いたあとのようす。実は港の中にミニ防波堤が2つある。普段は海面下に沈むことはないのだが今回は溺れてしまった。
船の係留場所の満潮時。船に乗るのに岸壁から上によじ登るなんてことは滅多にないのだが、スーパームーンの潮では勝手がちょっと違う。
岸壁の様子を拡大してみた。見ていただけば分かる通り、どの船も護岸より舳先の方が高くなっている。
潮が引くと普段の船の高さに戻るが、この日は下の写真からさらに30cm以上引く予報になっていて、一番下の階段から飛び降りなければ船に乗れなくなる。
満潮近くの棚底港に行ってみると、ちょうど御所浦行きの栄久丸が出航していた。普段は堤防に隠れて屋根やマストくらいしか見えないが、潮が高いので堤防越しに船全体が見える。
ここまで潮が高いと堤防が波に洗われる危険性があるので、釣り人も用心しているらしく一人もいない。安全第一!
棚底港の浮桟橋にも変化が見える。普段は浮桟橋への連絡路は下を向いているのでこちらからは見えない。
ところが今回の潮では桟橋側が上に来て、上り坂になっている。
御所浦港でも同じような光景が見られた。但し棚底港の写真から2日経っていたので、少し潮位が下がって直線道路に見えている。
ちょうど半世紀前、盆の高潮が堤防を越して民家の庭先にある井戸に流れ込んで、そのお宅の井戸水がしばらく使えなくなったという事件があった。その時も穏やかな天気だった記憶がある。こんな時に台風なんかやって来たらえらいことになる。今は堤防が高く整備されているのでさほど心配はしていないが、何が起きるかは実際にそうなってみないと分からない。どうかそのような巡り合わせにならないように・・・
数日後、午後一時に出航する栄久丸(本渡行)と八りゅう丸(御所浦行)とが同時に棚底港を出て行く姿があった。
高潮注意報も解除され、平和が戻ったような感じ。残念ながら満月の当日は曇りでスーパームーンの写真は撮れなかった。 2023年9月15日
]]>まず石材産地を目指す。石は「馬門石」(まかどいし)。継体天皇や推古天皇の陵墓とみられている畿内の古墳から見つかった石棺が馬門石で出来ていることが判明した。それから20年ほど経過した2005年、馬門石で石棺を再現して当時の運搬方法で海路畿内に届ける壮大な実験も行われた。
JR三角線住吉駅から車で南へ、網津町の馬門地区に向かう。およそ5分、石切り場跡の目印「大歳神社」に着く。
ここの鳥居は馬門石で出来ているそうだが、苔むして色がよく分からなかった。
神社前の用水路ではモンキアゲハとクロアゲハが揃って給水していた。暑いからねー!
神社奥の小高い丘の縁を歩いてみる。藪の中に灰色の崖が見え隠れしている。五和町御領の海岸で見かける崖とそっくりな質感。
そりゃそうだ。馬門石は9万年前の阿蘇の大噴火(阿蘇4)で噴出した火砕流が溜まって冷え固まって出来た『溶結凝灰岩』という岩石。御領石と同じ岩石だ。しかし馬門地区には鉄分を多く含む火砕流が流れ、見事なピンク色をした石材が出来た。一方の御領石は暗灰色。ちょっとした鉄分の含有量の多い少ないでこんな色の違いが出るのだ。ちなみに馬門地区の石も、きれいなピンクのものはあらかた切り出され、灰色の普通の凝灰岩がほとんど。どこかにピンク色の石ころが転がってないか探してみたが、灰色のものばかりだった。
石切り場跡を捜している途中に蜜蜂の巣箱の大集団があった。蜜蜂の羽音が響き渡る。この近くで幸せを運ぶ”青い蜂”を捜せば見つかるかもしれないけど・・・
次はピンクの馬門石で出来た細工物を探す旅でもしてみよう!
『天草四郎ゆかりの里』があるという宇土市旭町に向かう。探すのに苦労したというネットの書き込みがあったので心して掛からないと!
新聞の地図によると、『大星』というのがキーワードみたいだった。何のことか分からないままその辺を捜していると、中華料理屋の名前が『大星』だった。裏手に空き地があるので回って見ると・・・
あった! けど・・・こんだけ〜?
日本史上の大スター、天草四郎ゆかりの里は、雑草に覆われた小さな石柱一本が目印だった・・・でもこのあたりを中心に天草四郎が出入りしていたというならそれでもいい。このあたりは四郎の時代には「江部村」と呼ばれ、庄屋治兵衛が取り仕切っていた。その屋敷の裏屋に増田甚兵衛・四郎父子がかくまわれていたらしい。彼らはここを拠点として「転びキリシタンの立ち帰り」、つまり弾圧などによって一旦切支丹を離れた人を再び切支丹に戻るように説得する活動をしていたらしい。活動の範囲は天草上島の上津浦から大矢野島、島原に及んだらしい。その拠点がこのあたりだったというのだ。
そんなことを考えながら空き地から道路側を見て見ると・・・
この標識を見て立ち止まった人は石柱を見てびっくりするだろうなぁ。でもこれが歴史なんだなぁ。
石碑近くには水路があって古くから生活に溶け込んでいるらしく、柳川などに見られる洗いものをしたり水路に出入りする時に使う階段も見られる。
その先には船着き場があった。そこに架かる眼鏡橋は、欄干が阿蘇ピンク石、馬門石で出来ている!
これが古代の王族が貴んだ石だ。実物は予想以上に濃いピンクだ。ショッキングピンクの一歩手前といった感じ。近くにある井戸まで馬門石製!ちょっと感動・・・
船着き場の階段。ここから四郎たちも有明海に出入りしていたかもしれない。
船着き場近くには蔵屋敷を改造したカフェが2軒ほどあって、順番待ちの若い人たちが木陰で寛いでいた。
宇土市。切支丹大名だった小西行長が治めた土地。小西行長によって歴史の表舞台に躍り出たように思っていたが、実は古代の王族の墳墓にもつながっていた。同じ岩石で天草ともつながっていた。天草四郎でもつながっていた。2023年9月8日
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今年の夏の不知火海は異変から始まった(関連記事はこちら)。去年は”カレニア”というプランクトンが原因で、海が淹れたてのコーヒーの色に染まって恐ろしかった。今年は”シャットネラ”というプランクトンが暴れて海の色が赤茶色に染まった。養殖被害もひどかった。普段の海面と赤潮の海面を走ったときの差。下左が普段、右が赤潮。
漁業者は赤潮を避けるため、魚を生け簀ごと移動させる必要がある。数千匹の魚が入った生け簀を移動するには動力と時間がかかるので、はじめの頃は2艘で組になって前で引いて後ろで押していた。しかし赤潮の拡大につれて短時間に多くの生け簀を移動させなければならなくなり、単独で捌かなければ間に合わない。混雑する航路のど真ん中を必死に横切って避難している姿は、見ていて心が痛んだ。写真は御所浦行き栄久丸の船窓から見た様子。定期船とこんな近くで遭遇していた。
熊本県の情報によれば、8月31日時点で有明海の2観測点でカレニアがわずかに確認されたものの、他の観測点では有害プランクトンは観測されず落ち着きを取り戻している。このまま終息して欲しい。
夏と言えば積乱雲と夕立。五号橋近くの合津港に現れた積乱雲。どんどん大きくなっている。この時の雨は大矢野方面が中心だった。
天草では夕立がビジュアルに観察できる。夕立が不知火海を獅子島方面からこちらに向かっている。
迫ってきた。ヤバい、逃げろ!3分ほどで土砂降り。
有明海でも島原半島方面からこちらに向かってくる雨のカーテンがいくつか見える。
この6分後に土砂降りになっちゃった。
赤潮が落ち着いた不知火海で釣りをしているとウミネコが近くに泳いで来て何かちょーだい、と待っている。夏場はウミネコ、冬場はセグロカモメが天草の相場だ。釣りエサのエビをあげて少しずつ手前に誘ってみるが2メートル以内には寄ってこない。
釣りの帰りに網を曳いている漁船がいた。ウミネコはどの船に寄っていれば食べ物にありつけるかを知っていて、網を引く船には大勢寄って来る。
近くにある養殖場では、鯛のお食事の時間だった。
夏休み最後の土日。締めくくりのレジャーに天草を選んで下さった皆さん。
家族連れで賑わういかだ釣り場。日除けパラソルがズラリ。釣れてるかい?フェリー御所浦のデッキからのワンシーン。
8月最後の日曜日。四号橋のたもとではカヤック教室が開催されていた。インストラクターがパドルの使い方や波の受け方を指導する声が響いていた。筆者は埼玉県の長瀞で指導を受けたが、やっぱ海はいいな。
この夏も台風が来たが、おかげで働く船の同窓会もあった(関連記事はこちら)。まだまだ暑い日は続きそうで台風もポコポコ発生しているので油断はできないが、これから秋を楽しもう!
2023年9月1日
]]>天草市には天草市商工会と本渡商工会議所と牛深商工会議所という3つの商工団体がある。人口も事業者数も減っていく中でなぜ統合されないのかよく知らないが、本渡商工会議所が主催する『天草南蛮柿フェア』に隣の市の上天草市商工会の潮まねきさんが垣根を越えて参加されているのを見て嬉しくなって早速伺った。
夏休み期間中のお昼。平日とはいえ潮まねきさんは混雑している。順番待ちをしているとロボットみたいなのがいる。ハウステンボスで『変なホテル』が話題なったが、ここのロボットは受付はしないみたい。本当に動くのかな?と考えているうちに席に案内された。
窓側に通された。いつもながら眺めが良い。
席について「まるごといちじくと生ハムのピザ」とエビのトマトクリームソーススパ、デザートに「フレッシュいちじくの食べるシェイク」を注文した。
料理を待っている僕らの横に、さっきのロボットが料理を運んできた。本当に動くんだ!
しかも「ありがとうございます。ごゆっくりおくつろぎください」としゃべった!ほえ〜。
注文したピザとシェーク。ピザはいちじくと蜂蜜の柔らかい甘みのハーモニーがポイント。シェークはいちじくのピューレの存在感がいい!
ピザは一皿なので店員さんが運んでくれたが、シェイクはロボット君が持って来てくれた(下の写真)。人や床の履物をよけながらかいがいしく往復している。料理をテーブルに移動するため店員さんがついてくる。受付で愛嬌をふりまいたり、複数テーブルの混載など運用方法を進化させればもっと面白くなるかもしれない。それこそ「変なレストラン」!
これまで店員さんは重いお膳を持って何度も客席を往復していた。動線がカブるわ重たいわで見た目にもかなり重労働だった。それを大幅に軽減している。「人財」のために投資する。素晴らしい事だと思う。
先日の熊本県の最低賃金の引上げ答申を思い出してほしい。熊本地方最低賃金審議会が45円の引き上げを答申したが、採決の過程で審議会の経営者側委員は高すぎるとして4人全員が反対した。彼らにとって人は材料、つまり「人材」でしかないのだろう。結局他の委員9人が賛成して45円アップが答申された。がしかし、それでも全国最下位レベルをやっと脱出した程度で全国平均にも届かない・・・
地元を愛する人達が地元に残って楽しく仕事ができるように単純労働を機械化しようという潮まねきさんのチャレンジ。どんどん広がって欲しいと思う。
さてこれまで天草の個性的なCafeをいくつか取り上げてきたが上島の店は一軒だけだった。今回上島で新しく見つけたお店を紹介したい。
天草市下浦町と志柿町の境から山に入って松島に抜ける『オレンジロード』(関連記事はこちら)。志柿町の入り口から本渡東小学校を過ぎた先、オザキタイヤの近くにCafe La・La・La がある。
天草下島や大矢野島にはCafeがいくつもあるのだが、上島では貴重な一軒。
店の前には車が2,3台置ける。足りない場合はオーナーさんの自宅庭が「第二駐車場」になっている。この日は第二駐車場に置かせていただいた。
入口は普通の住宅の玄関。
玄関でスリッパに履き替えると洗面所に。うがい薬と紙コップ、手洗い消毒。変異株EG.5”エリス”が流行っているからきちんと感染対策。
ダイニングには2テーブル。他にもう一つリビングと個室とがある。
リビングに2組お客さんがいらしたので、個室に通された。
いただいたのは肥後赤牛のステーキご飯セット(1800円)とサーモンの香草焼きセット(1300円)。最初にサラダ。
次にパンプキンの冷製ポタージュスープ。が・・・写真を撮り忘れた!(;^_^A
メインディッシュ。赤牛のステーキご飯。ゴマ豆腐、揚げ物、酢の物にコンソメスープ、お吸い物までセット。
お芋が見た目のアクセント、柚子胡椒が味のアクセント。
サーモンの香草焼き。ご飯は五穀米をチョイス。魚はサーモンの他にカレイもセレクトできる。
どちらも作り手の温か味が伝わってくるお膳。おいしくいただいた。
この店のユニークなところは食後のコーヒー。カップがコレクションされていて、自分で好きなカップを”指名”できる。
筆者が選んだのは薔薇の花柄。何とデザートに手作りプリンまで付いてきた!コーヒーもドリップで淹れてあって美味しい!
他にも生姜焼きやハンバーグなどのメニューがある。木金土日の営業。2023年8月25日
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11日は山の日。この日からお盆連休が始まる。連休初日は会社で同期だった友人が東京から遊びに来てくれた。お孫さんと一緒だったので御所浦の白亜紀資料館の仮設展示場に案内したが、連休初日とあって親子連れがひっきりなしに訪れていた。
お盆の初日、13日の棚底港。コインパーキングは年に3回満車になる。年末年始、五月連休、そしてお盆。この時期にあぶれる車の数は相当なものらしい。難しい問題だ。
当然フェリーはこの期間増便して対応に当たっているがさばききれない。
お盆の期間はもれなく倉岳町も人が増える。親子連れを中心にかなりの人が里帰りをしている。体感的には人口5割アップといったところ。
筆者の住む倉岳町棚底ではお盆の15日にお墓に灯篭を灯す風習がある。夕方、灯篭を灯した墓所をお坊さんが施餓鬼の野菜を撒きながら回る。お坊さんが通過したところから灯篭を仕舞って帰路に就くが、回り始めの時刻にはどのお墓にもお参りの人がいるので子供や若者の数もMAXになって賑わう。でもこれだけの人たちが「故郷」に戻っているのに、彼らを町に引き留めるすべは今のところない。
16日には初盆を迎えたお宅が精霊船を仕立てて精霊流しをする。昔は初盆以外のお宅もご先祖様をお見送りするのに杉の葉などで小舟をこさえ、「西方丸」とか「極楽丸」という名をつけて送り団子やそうめんを乗せて午後4時頃に「浜」に流していたものだが、今は禁止されている。環境問題だそうだ。確かに今は全て護岸工事が施され、昔の「浜」は姿を消した。だからゴミ扱いされるわけだ。
精霊流しは初盆のお宅だけ許されているが、それでも流した船はすぐに回収しなければならない。そういう時代だ・・・
真夏なので地獄の話題、と言っても雲仙の地獄の話だが。
梅雨明けの頃に出掛けたので蒸し暑かった。実は雲仙って避暑地だって知ってました?ヘレン・ケラー女史が湯治に訪れたことがあるという話は聞いたことがあるし、その当時の写真も見たことがある。雲仙温泉郷は標高700mのところにある温泉地なので、天草最高峰の倉岳山(682m)よりさらに高いところにあるわけで、涼しいはずだ。
ホテルから地獄が見える。早速地獄めぐりに出掛けてみた。
地獄に入ってすぐ。”しゃしゃんぼ”の花に旅する蝶アサギマダラが来ていた。地獄に仏?
地獄にはいろんな名前がついている。これは「お糸地獄」だが、このように人の名がついた地獄は何かしらの理由で処刑された人の名が付けられているようだ。だから地獄なんだ・・・
ここから少し上に「キリシタン殉教記念碑」が建てられていた。
ここで熱湯拷問を受けても神への忠誠を守り、さらに長崎まで連行されて火あぶりの刑で殉教されたそうだ。江戸初期の長崎の役人や島原藩の領主たちは人間をなぶり殺すためのおぞましいアイディアに溢れていたらしい・・・
気を取り直そう。私たちはこの地に避暑に来ているんだから。
人の営みとは別に、ここは地質学的に興味深いところだ。島原は「ジオパーク」の先駆者だ(天草は数年前にジオパークを”棄教”してしまった)。島原半島の西側、橘湾の地下深くにマグマ溜まりがあって、そこから溶岩やガスが供給されているらしい。海が穏やかな時に海面にポコポコと泡が湧き上がっているのがフェリーから見えることもある。雲仙の噴気孔は長い時間かけて西から東に移動しているという。現在一番東が「大叫喚地獄」と呼ばれるあたりで、盛んに硫黄臭い高温のガスを噴出している。ゴーゴーと音もすごい。
そこになんと・・・
ネコ!
こいつスゲー!硫黄の臭いの強烈なガスの中を平気で歩いている!
ひょっとして修行中?地獄の番人?地獄の癒し系アイドル? 『地獄の沙汰もネコしだい』とでも言っておこう・・・ 2023年8月18日
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台風接近予報の2日前、5号橋近くで海上保安庁第十管区の巡視艇「なつかぜ」CL102(CL=Craft Large)が微速で何かを調べていた。台風の準備なのだろうか?
台風接近予報の前日、天草市の栖本町から鹿児島県の獅子島あたりまで6隻の船が錨泊していた。倉岳町の宮田漁港から見渡すと天草富士(産島)とのコンビネーションがグッド。
”はたらく船”3隻が肩を寄せ合っている。コンテナ船、バラ積み船、巨大なクレーンを二基つけた外国の船。写真のアングルでは接近して見えるが、実はそれぞれ数百メートルの間隔をとっている。手前にある緑の灯台は高さ4mほど。
獅子島側を見ると、今回も鹿児島県のトカラ列島を回る「フェリーとしま2」が来ている。鹿児島県の船なので県外には出たくないのかもしれないね。右手に「蜂の島」の白い灯台が見える↓
翌日下浦町の塩屋平から楠浦町方面を眺める。今回も大勢の船が来て賑やかだ。
まだ風が吹いていないので楠浦方面に足を延ばしてみると、さながら海の上の船の展示会といった感じ。まとめて「船の見本市海上」。
どんな船が来ているのかな。
今回初参加の船がいた。鹿児島大学水産学部の実習船「かごしま丸」。パラオ共和国など中西部太平洋まで実習に出掛ける船だ。水産学部のHPに実習生の日誌などが公開されているが、女性の実習生もいて頼もしい限りだ。頑張れ水産女子!
今回は去年の白鷗丸とは違う水産庁の船が3隻も来ている。船尾に日の丸を掲げて一見した姿は似ているが、艦橋やクレーン位置などそれぞれ微妙に違う。最初に漁業取締船「海星丸」↓
同じく「はくつる」。日本酒みたいな名前がいい↓
同じく「昇鶴」。”つる”が漢字になって昇って行くイメージ?↓
こんな作業船もいた。「苓陽」。初めてきたんじゃなかろうか↓
常連さんたちの同窓会。
鬼池⇔口之津フェリーのフェリーあまくさ?(下左)と獅子島航路、天長フェリーの「第二天長丸」。
甑島航路のフェリーニユーこしき(下左)、屋久島と口永良部島と種子島を結ぶ屋久島町営「フェリー太陽?」。
あらかた台風が抜けた10日昼前、はくつる、フェリー太陽?、フェリーあまくさ?、苓陽の4隻を残して職場に戻って行った。残った船も午後には帰るのだろう。 2023年8月11日
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国道から旧道に入ってすぐの下浦運動広場。人がたくさん集まっている。
なにやってるんだろう?
行ってみるとアーチェリーの試合をやっている。
参加者は小学生から大人まで、距離の短いものから長いものまでいろいろある。制限時間内に規定数を射て得点を競うようだ。
的の方に近づいてみると・・・おお!少年の矢も当たってる!
競技時間終了のホイッスルが鳴った。それぞれ得点の確認を行う。
遠くの的はオリンピックと同じ距離なのかな?結構遠い。
熊本県アーチェリー協会の『夏季例会』で、熊本県内はもとより福岡方面からの参加者もあるようだ。弓道部の練習はよく見たものだが、アーチェリーの試合はこの年になって初めて見た。カッコイイ!
運動公園から海沿いの道を歩く。なにやら柱がいっぱい立っていて古墳みたいなこんもりした小山があった。
表に回ると弁天様だった。
神奈川の江の島には弁天様がおられ、浜松の弁天島にもおられ、JR東海の「弁天島駅」もある。栖本町の弁天様も弁天島におられる。昔は弁天島におられたのだろうが埋め立てで陸続きになったのだろう。
弁天様の隣にはえびす様が鎮座、海を見ておられる。いかにも天草の風景。
細い道を通って旧道に戻ると下浦神社。子供の頃バスの車窓から見た記憶がある。
『下浦小学校発祥之地』前には昭和の懐かしい看板。これも子供の頃に見てたような…
西に歩く。「下浦土(どろ)玩具工房」さんがある(この日はやってなかった)。
下浦郵便局から船津天満宮に向かう。さすが石工の町下浦。途中あちこちに石材店がある。中でも筆者のお気に入りはこちら。
この日猫の姿はなかったがやさしい看板…
天満宮にやってきた。天草市の天然記念物になっている大楠が見事。
樹齢500年を超え、幹回りも9メートルに近い大木だ。
地元のお年寄りのみなさんが神社の幟を片づけておられた。挨拶して写真を撮っていると「幟の立っとるところが撮れれば良かったとにな」と声をかけてくれた。
皆さん優しかった。
船津の港に着いた。堤防(この場所)から本渡瀬戸方面を見ると海は行止りに見える。
実はここ、御所浦と本渡を結ぶ航路。どこから船が来るでしょう?
待つこと5分。来た!画面中央やや左寄りの平屋根の右側に白いマストが現れてすぐ船体が現れた。このブログで時々出て来る「栄久丸」。見えますか?
船体がこちらに向かうのがはっきり見えてきた。
船はここで面舵を切る(右に曲がる)。狭くて浅瀬もあってなかなか難しい航路だ。
五色島の青灯台の前を通り、
船津港堤防の釣り人に見送られながら御所浦港に向けて走って行った。
2023年8月4日
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今年の正月25日、天草は厳しい寒波に見舞われた。海抜10mちょっとの我が家ですら池の表面が全面凍結した。
この日標高の高いところで栽培されていた晩柑は、多くの果実が凍結してしまった。栽培地域によっては出荷シーズンになってもスカスカで売り物にならない実が6割に上ったところもある。とんでもない被害だ。だから見てくれが多少悪くても晩柑を積極的に食べたいし、もっと美味しく消費する方法を伝えたくてこの記事を書いている。
梅雨明け近くになると、天草晩柑は”甘いみかん”から『爽やか』なみかんに変身する。見かけが良くない晩柑がお値打ち価格で市場に出回るシーズンだが、そのまま食べるのであれば霜の被害に遭った実はちょっと厳しい。しかし絞ってサワーにすると気にならないし抜群に美味しい。もっと言えば健康にもよい!
天草晩柑は色んなところで売られているが、筆者はJA天草の直売所『とれたて市場』で買っている。小ぶりで見た目がイマイチなものが一個40円とか50円で売られている。意外と良いものが多い。入口近くに積んであるのが狙い目。
店の中も選り取り見取り。
大きさによって単価が変わるので目的に合った大きさを選べばいい。この日は9個400円のものをゲット。
サワーに使うお酒は、晩柑の風味を邪魔しないように25°の「ホワイトリカー」がお薦め!
炭酸は昔からお馴染みの銘柄。サントリーの天然水炭酸もお薦めだ。
材料は揃った。早速調理といこう!まず晩柑を二つに割ってレモンスクイーザで絞る。
あとはお好みで。筆者はコップに半分まで氷を入れ、3分の1まで焼酎を注ぐ。晩柑果汁を3分の2まで入れ、冷えた炭酸でコップを満たす。マドラーで一混ぜしていただくと、『プハー!』となる! 言っちゃなんだが、美味しいにも程がある!
夏場はこれで超健康に過ごせる!皆さん、晩柑サワーで医者いらず(お医者さんごめんなさい…)!どんどん飲んで農家さんを応援しよう!
冬の寒波が原因だとは思わないが、6月から不知火海が変だ。昨年養殖漁業を中心に19億円もの被害を出した赤潮が今年も大規模に発生している。去年は「カレニア」というプランクトンが犯人だったが、今年はこれに加えて「シャットネラ」と「コクロディニウム」という悪役3種が揃い踏みしているらしい。
棚底湾から宮田沖まで、茶色やオレンジ色に染まり、おかしなことになっている。船の後ろにできる波の色の変化を見て欲しい。
まず赤潮区域に入り始めたところ。少しずつ色が濃くなる。
赤潮の本流に入ったら波も赤くなる。
これ、おかしい… 養殖のいかだを避難させる船がいるが、逃げられるだろうか心配だ…
船を止めて海面を見ると…
怖い。気持ち悪い。魚探に魚影はほぼ映らない。恐ろしいから釣りを切り上げて帰る。御所浦でコクロディニウムのカンパチ被害があってからもう一か月も経過しているのに、倉岳ではまだ拡大しているような…毎日数回海を見ているが、遠目からも赤い海域が広く確認できる。どこの港に行っても透明度は30cmに満たない。
人間の打つ手は限られているらしい。早く元の海に戻って欲しい。魚はどこに行ったのだろう?戻ってほしい・・・2023年7月28日
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江戸初期に、松倉重政が作った(作らせた)城だ。4万5百石(”藩翰譜”では4万3千石)という石高は城持ち大名のミニマムらしいが、そのクラスの領主には不釣り合いな規模だ。お隣の肥後54万石の熊本城を基準にして比例させて考えれば13分の1が適当な規模ということになるが、明らかに分不相応だ。この地の旧領主だった有馬氏の居城日野江城には入らず、延べ百万人も動員して7年の歳月をかけてこのような大がかりな城を新たに築いた。いったい何のために??
天守は破風がない5層重ねで、司馬遼太郎に言わせれば「不愛想で単調で、間が抜けている」。築城費用を捻出するために領民を搾りつくしたことは想像に難くない。驚くことに松倉は江戸幕府の賦役も「10万石分やらせてください」と願い出たらしい。領民をいつくしむどころか、殺すほどに絞り上げたのである。このような松倉の悪政が島原の乱の直接の原因だと分かっているから、この城を訪れる気もしなかったし、むしろ避けていたというのが正直なところだ。
しかし動機がどうであれ、罪もない領民が命がけで築いた城であることは間違いないし、過剰労働で命を落とした人のことを思うと単に『悪政のシンボル』として切り捨てるには忍びない。であればこの城についてもう少し考えてみようというのが今回の訪問動機である。
島原城に着いた。名古屋城でよく見た「武将隊」がここにもいた。
中に入る。いただいたパンフレットにお城のことが書かれているが、有馬氏が龍造寺氏を撃破した瑞祥の地に松倉氏が入封してきて城を作り、以来4氏19代の居城となったこと、島原の乱の一揆勢の猛攻に耐え、眉山崩壊の大津波に耐え、長きにわたり譜代大名の歴史舞台となったとして”時間軸”に重きが置かれた表現になっている。
城自体については『層塔風総塗込の五層の天守を据える本丸。北へ二の丸と三の丸を配置して、要所を三層櫓で固め、外郭は4キロにわたって矢狭間をもつ練塀で取囲みました。4万石の大名には過分な城です。』とある。これが松倉に対する精一杯の皮肉なのだろう。さらに続く。『ここに有馬氏時代からの海外貿易の利益と、松倉氏の新興大名としての意気込みが見られます』。はたして『意気込み』なのか『自己顕示欲』なのか。江戸賦役での”いいかっこしい”のパフォーマンスがその答えを語っているように思う。意気込みのために命まで取り上げられた領民はたまったもんじゃない。この表現には賛同できない。
一揆の導火線に直接火をつけた松倉勝家(重政の子)の名前は出てこない。あまりの悪政ゆえ乱の後責任を問われ斬首に処せられたような人物だから、領民からすれば思い出したくもない名前だろう。そう考えると城の出自にこだわるのはお門違いかもしれない。時間軸で見れば島原城は領民と苦楽を共にしてきた時間の方がはるかに長いのだ。事実は事実として記録されるべきだが、お城の「人生」にこそ重みを置くのはその通りだという気がする。そう考えると島原城の表情が司馬氏の表現とは少し違って見えてくるような気がする。
展示内容は
1階:キリシタン展 島原の乱にまつわる資料
2階:郷土資料展 松平家の鎧など歴代藩主にまつわる文物
3階:庶民の暮らしに使われていた生活用品など
となっている。2階より上は割愛して、1階の展示品で特に目を引いたものを2点紹介したいと思う。
・天草四郎陣中旗を幟にするとこうなる
島原市の中学生が、陣中旗がひるがえる様子を再現したもの。
・石造マリア観音
天草に来た宣教師が刻んだもの。天草から切り出されたそうだ。
マリア様の顔立ちを見ると、日本人の手によるものでないことが直感的に分かる。
館内を見学してから展望台に上った。北の方には眉山が望める。
南の方には天草を望む。この辺りの海岸には眉山が山体崩壊して海に流れ込んだ時の山体の破片が『九十九島』として点在しているそうだ。
天草はこんなに近いのに島原城のパンフレットのアクセスマップを見ると…天草を避けているのかな?
口之津ー鬼池のフェリーがメインルートに加わってないし、地図もヘンな小島が点々と八つも転がっていて面積もいい加減…島原市は天草とできるだけ距離を取りたいのかもしれない。天草と島原が同時に出てくれば『一揆・乱』が連想され、原城が被抑圧者側の鎮魂の場だとすれば島原城は抑圧者側の象徴となってしまいがちだ。それを嫌っているとも見える。私が島原城を避けていたのと根っこは同じなのかもしれない。島原城と松倉重政・勝家親子を同じ台紙の上に貼り付けてしまったことがこのような結果を招いたのだとすれば、司馬遼太郎さんにも反省してもらわないとね。
2023年7月21日
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木も立派だが、囲いの石垣も御領石を切ったもので立派だ。
比較的新しい石材のようなので、対岳楼建築当時のものではないかもしれない。
一流の芸術に触れることは大切なことだが、生活にゆとりがないとおいそれとはいかない。芸術の恩恵は村人に還元されていたのだろうか… 同じ庄屋でも高浜の上田家のように村人の貧しい生活を救うために焼き物をこしらえたり陶石を売ったり殖産興業に励んだ人達のことを思うと、方向性がちょっと違うように思ってしまう。
対岳楼は対岸の雲仙を借景として利用していたのではないだろうか。そうだ、雲仙、行ってみよう!
口之津から原城横を通って島原市へ向かう。一揆勢が籠城の時に食べていた兵糧の餅を使った雑煮、『具雑煮』をいただくために
島原城近くの「姫松屋」を訪ねる。本店が休みの日なので、すぐ近くにある支店に伺う。
中は「島原名物具雑煮」アピール一色!これ以外の選択肢は難しい?
店に来た人は全員具雑煮を注文している。当然ながら我々も全員具雑煮。
島原の乱のとき、総大将の天草四郎は餅を兵糧として蓄えさせ、山や海からいろいろな材料を集めて雑煮を炊いて88日戦ったそうだ。この伝承をもとに味付けを工夫しながらレシピを再現したのが「具雑煮」だという。しろな、鶏肉、アナゴ、蒲鉾3種、ゴボウ、椎茸、凍豆腐、卵焼き、蓮根、春菊を具にして一口大の餅が入っている。
当時なら出汁は牡蠣やミナ、フジツボなどの貝類を使えば結構いい出汁がとれたかもしれない。浜に出れば普通に採れるしね。四郎たちが食べたであろうメニューをいただいたというのはちょっと感動ものだった!
おやつはこちらも島原名物「かんざらし」。白玉団子を蜜に浮かべていただくお菓子だ。「浜の川湧水」に近頃復活した、おばあさんのかんざらし「銀水」を目指す。
浜の川湧水は私の子供が小学校の頃連れてきて以来。30年ぶりかな。当時と比べると、コンクリートできれいに整備されて少し乾いた感じに変わっていた。
でも見覚えがあるので懐かしい。目の前の「銀水」に伺う。
おばあさんはいないが、気さくなお姉さんがいる。中は湧水が流れている。
本当に涼しげだ。カウンターもいい感じ。ラムネなんかも冷えている。
まってました、かんざらし!
おいしい! でももう一言いうなら、夏場の暑い盛りにそれ以上に美味しかったのは冷えた雲仙の伏流水だった。かんざらしの甘い蜜をいただいたあとのお冷の一杯は、蜜以上の甘みを感じる! 是非皆さんも! 2023年7月14日
]]>週刊朝日と言えば司馬遼太郎の『街道をゆく』が連載された週刊誌。昭和の残り香がまた一つ消えてしまったように感じる。
本ブログでも何度か取り上げた『街道をゆく』の17巻「島原・天草の諸道」に、曹洞宗の明徳寺が出てくる。この4月から周遊バスコースにキリシタン館が加わり(関連記事はこちら)、バスセンターからキリシタン館までの往復が追加された。キリシタン館から下り始めてすぐ明徳寺の山門前を通る。それからヘアピンして石段の参道下に出る。ここを通って延慶寺方面に抜けるのだが、ガイドはここで「この参道の石段に十字架が刻まれていて、参拝者は知らず知らずに踏んで参拝するようになっていたそうです。司馬遼太郎さんの”街道を行く”にも書いてあります」と解説する。しかし筆者は十字の刻印を見たことがない。気になってしようがないので改めて明徳寺を訪れた。
梅雨の合間を見計らって明徳寺を訪れる。参道の上り口に立って山門を見上げると「威容」という言葉がふさわしい。
石段を登りながら十字の刻印を探す。司馬さんが訪れてからもう40年以上経過している。はたして残っているだろうか。どのあたりにあったのか、15センチくらいの線だと書いてあったが・・・分からない。山門が迫ってきた。何という威圧感!
見つけられないまま最上段まで来てしまった。ふと気が付いたのだが、訪問したのは夏至近くのお昼前。日差しが真上から来るので影ができにくい。化石を見つける時もそうだが、影ができる角度にしないと見つけにくい。司馬さんが訪れたのは夕暮れ前。訪問する時間を間違ってしまったかもしれない。仕方がない。もっと注意して下りながら探す。
入口まで残り20段もなくなってきた。やっぱり消えちゃったのかな・・・と諦めかけたとき、あれ?
確かに十字がある。しかし下に『二』のような線があるので『十二』とも読める。これだろうか?
近くの段にも同じような十字があった。でもこれにも下に『一』があるように見える。
これが十一でさっきのが十二なら、何かの整理番号なのかもしれないが、こちらの『一』は中心軸が十とずれている。関連がないようにも思える。もっと他にないだろうか?
あった!これは十字だけのようだ。多少傾いているが十だ。
もう一つ見つけた。こちらはきれいに十字に彫ってある。間違いなくクルスだと思う。司馬さんが最初に見つけたのはこの十字架かもしれない。
お寺さんに確認してみたくなって再び階段を上った。息が荒くなって辿り着くと立派な山門が出迎えてくれる。
天草市指定文化財で、門の左右に金色の文字で銘が彫られた一対の「看板」がある。これは『双聯』(そうれん)というそうで、乱で荒れた天草の人心を仏陀の正法で救済しようという意思が込められているそうだ。
山門を潜って右の庫裡を訪ねる。奥様がご対応下さった。「司馬さんの街道をゆくに書かれていた十字はこれなのでしょうか?」と今撮った写真を鑑定していただく。「近頃は見ていないけれど、これだと思います」とのこと。参道の上り口近くに何か所かあって数字っぽい刻印と並んでいるものもあるとのこと。間違いないようだ。私も知らず知らずに踏んでいたのかもしれない・・・
帰りに山門を裏側から見た。重厚な開き戸があって表に紋章があしらわれている。
雲水はこの戸を叩いて入門を乞うたのだろうか。
以下「街道をゆく」から引用
『やがて、その石段のところどころに、「十」といった形の十字架が刻まれていることに気づいた。十字架の縦の線が十五センチほどあるもので、よく見なければ気づかぬほどにまで摩耗している。気づいてみると、石段のあちこちに、散乱させたようにして刻まれている。私どもは、自然に十字架を踏みにじりつつ降りていたわけであり、むろんそれを意図して、江戸初期の創建早々か、それ以降に刻まれたものにちがいない。
切支丹禁制時代の凄味といっていい。』
このあとの本文に『この石段のさりげない十字架については、この翌日、江戸期からつづいていた崎津の旅籠「紋付屋」の勝手口の古い石段の上にも見つけた。』とある。崎津の紋付屋は今は解体されて公園になっている。そういえば見取図があったはずだから、勝手口の場所を特定すれば残っているかもしれないと思って再度行ってみたが、当時の古い石段は一個残らず新しいものに張り替えられていた。
この40年の間に歴史の証言者はどこかに捨てられたものらしく、みなとや資料館の皆さんに聞いてみても誰も今の所在はご存知なかった・・・ 2023年7月7日
]]>道の駅「宮地岳かかしの里」では梅雨と七夕の飾り付けが季節感を盛り上げている。雨の日にこそ出かけてみる価値あり!ってか?
晩柑フェアで知ったお店を訪ねるシリーズの第二弾。今回はランチ二店に挑戦。まず釜焼鳥本舗『おやひなや』に初入店。
釜焼鳥は四国の香川でおなじみの料理らしい。タレに漬け込んだ骨付き肉を特製の釜で焼く。おや鳥とひな鳥を出すので「おやひなや」。フランチャイズチェーンみたいなので他の店舗を調べてみたら、筆者が長年勤務した渋谷道玄坂にもあった。現役時代にこの店に入ったことはないけど近くの店にはよく行ってた。この看板文字は見たことがある気がする。晩柑が天草と渋谷と香川をつないだ、と言えば大袈裟?
いただいたのは「季節の野菜天と黒酢ばんかんジュレぶっかけうどん」。
うどん県(香川県)にうどんを食べに行ったことがあるが、平均レベルが高いし人気店は文句なく美味しかった。この店の麺は香川の平均レベル。ということはレベルが高い。ジュレを溶かしつつ晩柑を搾ってかけていただく。出汁が足りない人は椎茸の香りがするつゆも付いている(天つゆか?)。野菜天はサクサクで九州人好み(全体がカラっと揚がって「銀座〇〇」のような中のしっとり感が弱め)だ。
もう一つ「極み天讃岐うどん」もオーダー。こちらで見ると手打ちうどんの質感が分かると思う。
うどんはランチタイムだけらしい。香川の料理を出しているなら香川の地酒を出しているのか気になってメニューを見た。しかし、ーーーない。
実は筆者は香川を代表する「綾菊」と言う酒を昔から知っている。同僚に綾菊の当主の甥がいたからだ。全国新酒鑑評会で金賞を取ったことがある名門。金賞を取ったときの杜氏は國重さんという方で、同僚は子供の頃國重さんにいつも遊んでもらって可愛がってもらったそうだ。その技術を継承した大吟醸を、國重さんへの敬意を込めて『國重』という銘で出している。下の写真は孫の初節句用に調達した綾菊「國重」。大切な日の大切な酒に私が選んだ酒だ。
お店に聞いてみたら綾菊をご存じない様子だった…料亭じゃないんだから「國重」とまでは言わないが、綾菊は常備して欲しいものだ。
最後に新しい隠れ家カフェを一つ。亀川の新星堂から山に入ったところに最近出来た店だ。
新星堂の隣の小道。すごく切迫感があるが、車幅が185cmなら問題なく通れる(細心の注意が必要だが…)。
細い道を40m程進むと「komorebiごはん」がある。
古民家とあるが恐らく昭和の建築だろう。それをリフォームしてカフェにしている。コロナが終息に向かうかどうかという半年前に開店したというから結構チャレンジャーな経営者だ。頑張って欲しい!駐車場が狭いので要注意。
中に入るとこんな感じ。神棚が神々しい。
窓際の席が満席だったので奥に通される。屋根の採光窓の下に白い布をたるませて自然光を拡散している所がいい!明るいでしょ?
晩柑フェアの「晩柑スパイスde天草大王カレー」をいただく。
天草大王の骨付きが入った美味しいカレーでネパールやカシミールあたりのカレーという感じ。でも”晩柑ピールのスパイス”を”かけて”いただくスタイルは晩柑フェアに合わせた苦肉の策と言えなくはない。無理やり晩柑に結び付けなくても美味しいカレーなので、晩柑フェアが終わってからでも行ってみてはいかが?
折角なのでおしまいにKona Kona Caféの『あまくさ晩柑スムージー』も紹介しておく。
豆乳ベースのあっさりした晩柑スムージー。フロートはアイスクリームではなく生クリーム。
いかがだろう?晩柑フェアメニューを店の看板メニューとして定着させたお店があって、そこに新人が新風を吹き込んでいる。コロナ禍で停滞していた晩柑フェアが今年息を吹き返したように感じる。
あまくさ晩柑は天草にとって大切な柑橘ブランドだ。デコポンでは芦北の後塵を拝して天草ブランドは風前の灯。デコポンは天草が一番有名なんて認識は過去の話。今デコポンと言って天草を思い浮かべる人は少数派だ。それに引き換え晩柑はまだ「天草」が通じる重要なブランドだ。「まだ」と書いたのは、このままでは消えてしまう「絶滅危惧種」だと思うから。今は本渡商工会議所のイベントだが、全天草を挙げてブランドを推進してほしい。そうでないとデコポンの二の舞になる。今手を打っておかないとやられてしまってからでは手遅れだ。 2023年6月30日
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熊本方面から国道324号で有明町を抜けたあたり。山側に『あか巻』のイソップ製菓が見えて来る。晩柑フェアの幟も立っている。
中には休憩スペースと商品販売コーナー。この日はテーブルの上に試食品が並んでいた。天草人にとってなつかしい『南蛮羊羹』の看板も!
お目当てはここの『an-ccino』(アンチーノと読むらしい)。商品のキャッチには『昭和24年からお菓子を作り続けている当社だからこそのアイディア商品、あんこで加糖したフラッペ。天草の晩柑の甘さをあんこがしっかり引き立たせてくれています。』そこまで言われたら試したくなるのが人情というもの。ストロベリー(左)と黒蜜(右)のトッピングをチョイス。
晩柑がたっぷり入ったマックシェイクに粒氷が混じったような感じのフラッペ。晩柑のほのかな苦みに加えて控えめながらあんこも確かに感じられ、晩柑の酸味を邪魔しない絶妙な甘み…自信に満ちた商品のキャッチは本物だった!
トッピングのソースは、はちみつ、チョコレート、キャラメル、ストロベリー、黒蜜から選べる。土台がおいしいのでどれも味のアクセントになるが、あえて選べばはちみつが晩柑との相性が一番良いように感じた。これで400円は嬉しい!晩柑フェアが終わっても出してほしい一品だ。
イソップ製菓を出て324号から未来大橋を渡って佐伊津町に向かう。ここに行ったことのないカフェがあって晩柑ランチを出しているという。カーナビに従って山の中に入ってくねくねと農道を走っていると葡萄畑が現れた。
天草にこんな風景があったとは。袋掛けしてあって房は見えないけど、どんな品種を栽培しているんだろう?それにしてもどんどん山に入っていくようだけど大丈夫かな?
ナビ画面にゴール地点マークが現れた。畑の中に『あまくさ晩柑フェア』の幟が立っているけど、ホントにここ?
半信半疑で畑の中を進むと・・・駐車場があってカフェ「ハンドメード」があった!
中に入るとすぐ物販コーナー。自家製ドレッシングや農産加工品などいろいろある。
その奥がランチスペース。
メニューの他に、ホワイトボードにもその日のオススメがある。
一つは晩柑フェアの対象料理『豚スペアリブ晩柑マーマレードグリル』を洋食セット(¥1,345、サラダ、スープと食後のコーヒー付き、ご飯のセットにもできる)にしてオーダー。サイドディッシュにバジル入りチキンクリームコロッケを追加。
サラダが来た。お店のドレッシング3種類(和風、中華風、フレンチ)からチョイス。さすが農場のサラダ、新鮮シャキシャキだしトマトが甘い!
料理が来た。パンは『えすぽると』製だそうだ。佐伊津にこだわっているところがいい。
晩柑のマーマレード入りタレに漬け込んでグリルしたというお肉は思った以上にボリュームがある。これでもか、とお皿にもマーマレードが添えてある。晩柑フェアとは関係ないけど、本日のおすすめ「ハンドメード風ちゃんぽん」もオーダー。
もう6年くらい営業しているそうだ。きっと軌道に乗り始めた頃にコロナに襲われて苦しかったことだろう。花カフェのように閉店されたところもある中、頑張って続けて来られたんだ…
思いがけないロケーションにあるカフェ。皆さんいかが? 2023年6月23日
]]>結論から言えばそれほど不利でもない。ポイントは格安航空券の活用と移住前の住居。移住したらパラダイスというのは幻想で、都会生活で疲れてしまうのと同じく田舎で暮らしていても気分転換が必要なときがある。そんな時は元の住居の手入れに行く。ご近所さんとの再会も親戚友人との再会もできるし。そのとき美術館の展示スケジュールを参考にすればよい。空港や新幹線の駅近くなら日帰りも可能だろうが、それ以外の地方なら天草と似たようなものだ。
今回は国立科学博物館と国立新美術館と東京国立近代美術館をはしごした。
恐竜博(記事はこちら)でお昼をいただいた博物館内のレストランの窓から、地球館の常設展が見える。
子供が小学生の頃連れてきたことがあるので25年ぶりくらいだろうか。恐竜博の入場券で常設展も見学できるので、午後は常設展を回ることにした。
レストランから見えたのは1階の生物多様性の展示コーナー。行ってみると標本も相当充実している。
天井には海の生物たち。海の中から見える世界を表現している。
その奥には138億年前の宇宙誕生からの宇宙史、地球史、生命史、人類史を映像で辿る壮大な時空の旅。見ていてあきない。
地球館は地下3階、地上2階建てになっていて、各フロアごとにテーマが設けられている。一日かけても十分なくらいの展示だ。常設展であっても充実している。その中で特にお薦めしたいポイントを3つ紹介しておきたい。
?地下1階の「恐竜の謎を探る」コーナー。コレクションも充実しているが、ティラノサウルスの前足の役割について面白い説を採用している。
ティラノサウルスの狩りの様子が想像できる姿勢を再現している。
?同じコーナー。恐竜たちに『とどめを刺した』大事件、小惑星地球衝突の痕跡の実物。
「K/Pg」と書かれた赤い矢印の部分。米コロラド州の地層の露頭部分の剥ぎ取りサンプル。K/Pgとは中生代と新生代の境界のことで、ユカタン半島に小惑星が衝突したことによる環境の激変で生物の70%ほどが絶滅したとされる。それが地層に残されている。
?地下3階の「物質の究極の成り立ちを探る」コーナーにある『霧箱』。宇宙から飛んでくる放射線の軌跡を目に見えるようにした装置で、本物の霧箱を見れられるところは極めて少ない。暗いところで見るので写真にはうまく撮れなかった。
他にも見どころ満載。お子さんやお孫さんを連れて行ったらどうだろう。
翌日、午前は国立新美術館で「ルーブル美術館展 愛を描く」、午後は東京国立近代美術館で「重要文化財の秘密」展を鑑賞。「重要文化財…」はよく知った作品が多く思いがけない収穫だった。
ところで最近は一部の作品の写真撮影が許可されている。とは言えそこここでスマホのシャッター音が聞こえるのは何となく耳障りだ。撮影禁止作品には禁止マークが表示されているが、混雑の中で一人や二人間違って撮っても分からないのではないか。実際『確信犯』と思われる50代後半くらいのおっさんが撮影禁止作品の写真を撮ってすぐ人ごみに紛れ込もうとした。係の女性が「お待ちください!」と追いかけていたが、気づかぬふりをして逃げるおっさんを捕まえられたのだろうか?無理だろうな。意思があって撮影する連中から著作権を守るにしてはセキュリティが甘すぎるのが気になった。
2023年6月16日
]]>朝から穏やかな祭り日和に恵まれ、神事を待つ本殿。
いつもながら、まっすぐ海に向かう参道の景色のすがすがしさ!
コロナのため中止や規模縮小が続いていたが今年から太鼓も供物の行列も復活し、神楽も奉納される。これで一安心と思ったら、3年を経て不都合な真実が見えてきた。
地方にいると少子高齢化社会の深刻さが実感としてよ〜く分かるが、東京などではよほど気を付けないと感じない。筆者のように年に数回しか東京に行かない者から見れば上京の都度変化が感じられるが、毎日生活していると『ゆでガエル』になってしまうのも無理からぬ話だ。先月レポートした神田明神のお祭でもコロナが終息して盛り上がる話題ばかり(記事はこちら)。景気良い話は必要だが、人口減で消滅の危機に直面している地方にあって今回の祭りで『存続』という言葉について考えさせられた。
当地棚底の神楽のお囃子は地元に伝わるメロディーを横笛で奏でる。神楽を見ていると「この祭りを存続させなくては」という思いがこみ上げてくる。しかし、である。
笛の奏者は70代が中心。座ってならいいが、行列に帯同しながらの演奏は60を過ぎたら体力的に厳しいと思う。今回は頑張っておられたがいつまでも頼ってばかりはいられない。存続のためには若い後継者の早期育成が喫緊の課題だ。
神楽の舞い手は子供4人。うち2人は駐在さんのお子さん。もし転勤にでもなればその年の祭りは人材枯渇に陥るってしまう。”転勤させないで”と嘆願活動をして引き留めでもしたい気分である。ちなみに棚底地区は平成22年の国勢調査から10年で人口は15%減、15歳〜64歳の人口は28%も減ってしまった。半導体の集積度とは反対の『逆ムーアの法則』状態が続いている。出生数で見ると倉岳町3地区合計でも令和1〜4年を通して30人程度。昨年1年に限れば3人である。現在の倉岳小学校の児童数は65名。祭りの存続どころか町の存続が限界に達していると言える。
神楽奉納が終わって神輿行列が神社を出発、地区内を一周する。途中天神様で神楽を奉納して本殿に戻る。20年ほど前まで太鼓も神輿も人が担いでいたが今は台車に乗せて曳くことは昨年紹介した(記事はこちら)。太鼓の叩き手だけは機械に頼れない。踊りを交えながら移動中も叩くので若い人でないと出来ない大役だ。昔は青年団が中心だったが、そのような組織はもうない。
天神様に着いた。小さな社殿に神輿さまがお休みされるまで外で太鼓が叩かれる。
若い男女が数名で踏ん張ってくれているが、進学や就職で来年も叩き手をしてくれるかどうか分からない…今年叩いてくれて祭りが成立したことに感謝!
天神様での神楽の奉納。お堂が小さいので世話人は外で見学、で写真が撮れた。みなさん、笛も太鼓も神楽もライブですよ!
昔、新国道が出来るまで地区の中心だった狭い県道を本殿へと戻って行く。右手に見える商店は昨年末に閉店されたばかり(記事はこちら)。
この2月に閉院された歯科医の前を通る。すぐ先には2年半前に閉院された内科医も。町内には歯科医院はなくなり、医院は宮田地区の内科が1軒だけになった。
ここは本屋だった、ここは時計屋だった、ここは衣料品店だった、ここは豆腐屋だった、ここは薬局だった、ここは旅館だった、ここは自転車屋だった、ここは酒屋だったと子供の頃の様子を思い出しながら、今はシャッターすら少なくなった通りを抜けて神社に戻る。本殿前の広場で太鼓が打ち鳴らされながら神事を待つ。
神様に神輿から降りていただき、無事虫追い祭が終わった。また来年、存続できればいいな。
この一年で棚底地区は目に見えて寂れた。一番大きい商店の閉店、町内唯一の歯科医閉院、町内唯一のタクシー廃業、住民の避難所だって市役所が手を引き住民に運営が委託される。これらも「不都合な真実」の一部だと言えよう。もはや簡単に「倉岳に移住しましょう」なんて言えないのではないだろうか。少なくとも「棚底に」とは言えない。
このブログの方向性もそろそろ転換点に差し掛かっているような気がする。 2023年6月9日
]]>これまで何度も煮え湯を飲まされてきたJetstarだが、運賃の安さには勝てず今回も成田便を使うことにした。
空港駐車場は単価が高めで割引もないので、割安な民間駐車場に預けて空港まで送迎してもらう。空港正面の車寄せで降りた。早く着いたので新しいターミナルビルを見て回る。
1階に「TULLY'S COFFEE」と「和食りんどう」があった。他のお店は3階にあるというので上ってみた。保安検査場の衝立越しにいろいろ看板が見えているが入口は?フロアマップを見ると保安検査場を通った後しか利用できない!郡部から時間に余裕をもって送迎に来ても、皆で食事でもしながら過ごそうなんて考えれば1階の2店舗以外の選択肢はない。
保安検査を通って中に入る。塀の中のような不思議な空間だと思って写真を撮ると、係の人が飛んで来て「保安検査場が写った写真は削除して下さい」。撮り直したのが下の写真。保安検査場は写ってないが右側にある。
中にはお土産屋や飲食店など色々入っているが待合席と店舗席がシームレスになっていてフードコートにいるみたい。安っぽいけど搭乗する人にとっては短時間で何でも済ませられるので悪くないかもしれない。
機内への案内が始まった。ボーディングブリッジから隣に駐機していた『鬼滅の刃じぇっと-弐-』が見える。ラッキー!
今回の旅は7泊8日。イベントが目白押しなので日程をこなすために出張並みのスケジュールを組んだ。
珍しく定刻通りに成田に到着。京成線に乗って船橋駅で下車して東武デパ地下の中華そば青葉で遅めの昼食をいただいてJRに乗り換え。半年ぶりに自宅に戻ると空気を入れ替えて大掃除に勤しむ。一生懸命労働した後のビールはうまかった!
今回は首都圏で出会ったほっとするシーンを紹介したい。
千葉県松戸市。子育て家庭を厚遇する政策が評判になり、子育てを機に移住する人が多いことで有名な街。二男一家も隣の江戸川区から昨年引っ越してきた。向かう途中の新松戸駅ホームから見える看板。向こうに農作業中のおばちゃんが見える。農業体験参加者? 申し込みも電話番号でなくてFAX番号だけっていうのもアナログでいい。
隣にはコインロッカー式の直売所もある。練馬にあるこの手の直売所がNHKの「ドキュメント72時間」で取り上げられていたが、200円均一ロッカーなので100円の商品にはお釣りが100円添えてあったのが印象的だった。
雨模様のある日、多摩の某所を走る循環バスの中。料金箱の左側にご注目。
『貸出傘』『次回ご利用時にお返しください』。思わずほっと暖かい気持ちになった。
友達と横浜で再開。二次会はベイシェラトンホテルのバー「ベイ・ウェスト」で。
隠れ家のような静かな空間で久しぶりに語り合った。ほっとするひと時だった。
2023年6月2日
]]>私のホームグラウンドは不知火海。宮野河内より南下したことはないし大矢野島の西側に出たことも本渡瀬戸を抜けたこともない。穏やかな不知火海の春の風景を紹介しようと思う。
はじめの風景は黒島近くでちりめんじゃこ(シラス)を曳いている船団。船団といっても3隻。左右に網を引く船と網の後方で見張りをしている船。今年はシラスが不漁らしい。連休には嵐口付近でも別の船団を見かけた。
その日の夕方。獅子島近くでいつも見慣れた倉岳山を、高さが55メートル近いホテルがど〜んと現れて隠してしまった。
豪華客船クイーンエリザベス号、3代目だ。船の後ろには竹島と黒島、その向こうに牧島が見える。船の向こう側に倉岳山が見えるはずだけど巨大な衝立になって隠してしまった。八代港を出て御所浦島と獅子島の間を抜けて獅子島の北側を通って牛深に出る途中。私は船が来る前に帰っていたので釣り仲間のF氏が送ってくれた写真。
このような大型船に小型船舶が近づくと吸い込み効果で引き寄せられて大変危険なので、このくらい遠くから眺めていた方がいい。
ゴールデンウィークの中休み。QE号の通ったあたりで釣り。引き潮が止まって当たりがない中、ド〜ンと引きが!ドラグが逆回りして糸が出て行く。格闘すること数分。恐らく7分くらいだと思うが、上がってきた魚影を見てガックリ。1メートルを越えるシロザメ。結局タモに入りきらず、糸を切ってサヨウナラ。
ま、竿を折られたりすることもなく怪我をすることもなかったので仕方ないか・・・でもこれがカンパチだったらなぁ。
連休後半。化石教室のために御所浦に行く船の中でのワンシーン。赤崎ではフェリーと定期船がすれ違う場面が見られると紹介したが(関連記事はこちら)、定期船からすれ違うフェリーを眺めたもの。
フェリーの向こうが赤崎の町。何となくうれしい。
鯉のぼり泳ぐ御所浦の港に着くとヨットが大小3隻停泊していた。浮桟橋の向こうには珍しいピンクの漁船も見える。
御所浦の消防署は港の近く。消防車、救急車の他に救急船も待機している。離島ならではの装備だ。
連休明け。恐竜博から戻って釣りに出て獅子島に近づくと、霧に包まれた。船の窓からは霧しか見えない。
近くには黒島や竹島、葛島に双子島もある。濃霧の中をうろつくのは危険だ。しばらくこれらの島々に囲まれた安全海域でじっとして霧が晴れるのを待つことにした。文字通りフォグランプを点けて周囲の音に細心の注意を払いながら釣り糸を垂れる。
海面をのぞき込むとこんな感じ。少し向こうに釣り船の気配がある。静かだけど、少し怖い。
少しずつ霧が薄くなってきた。近くにいる釣り船が見えるようになってきた。霧の中から獅子島が姿を現した。
やがて霧は嘘のように消えた。何となく不思議な体験だった。 2023年5月26日
]]>その頃ラジオで、東京で開催中の「恐竜博」の事を偶然知り、機会があったので行ってみた(関連記事はこちら)。そして今年4月、釣りをしながらラジオを聞いていると「子ども電話科学相談」で「恐竜博2023」が6月18日まで東京・上野公園の『国立科学博物館』で開催中であることを知った。先週東京に行くことになったので時間を作って行ってみた。(七夕(7月7日)からは会場を『大阪市立自然史博物館』に移して9月24日まで開催されるので、大阪方面にお越しの折には立ち寄ってみてはいかがだろう)。
今回のは"鎧や盾"で防御を固める方向に進化した恐竜たちと、攻撃性を高める進化をした恐竜たちを対比させながら展示している。でも詳細にレポートすればきりがないので、私からみた「見どころ」をかいつまんで3つ紹介したいと思う。
みどころその一。主役は「鎧竜(よろいりゅう)ズール」。上の恐竜博のパンフと同じ写真のシルエットのように、ハンマーが付いた尾を持って、体は鎧に包まれている。”アンキロサウルス”の仲間で、現生動物のアルマジロのように体の表面の骨成分を増やして防御のための鎧を作っていた。しかもトゲトゲに。「ズール」の名前は映画「ゴーストバスターズ」に出てくる悪魔のキャラクターに似ていることから命名されたそうなので、命名者の年齢が想像される。
今回展示されている化石には鎧と鎧の間の皮膚まで残されていて、専門家でなくても生きている時のことを想像できるような標本(実物)だった(日本初公開)。
今回の化石はハンマーを振り回すときに使った”腱”まできれいに残っている。ハンマーをどのように使っていたかを知る重要な手がかりだ。しっぽにあるハンマーを強力なワイヤーで左右にブンブン振り回して敵のスネを払うので、一撃をくらった肉食恐竜はたまったもんじゃなかっただろう。さらに他の個体の研究で仲間同士での争いにも使っていたらしいことが分かっているそうだ。
もはや昔ながらの『断片的な化石を組み合わせて”想像する”手法』は通用しない。今後も従来の疑問に対して回答となるような化石が発見されることを期待している。
見どころその二は世界的に有名な2体のティラノサウルスが実物展示されている点。これまで発見されているT-REX中最大の全長13m、8.9トンの「スコッティ」と、世界初公開で全長11.2mの「タイソン」が並んで展示されている。左がタイソン、右スコッティ。
タイソンの右腕には他のティラノサウルスに咬まれた痕が残っていて、王者T-REXといえども決して安泰な生活ではなかったようだ。
余談だがアブダビ自然史博物館が2020年に落札したティラノサウルス「スタン」は33億円。それよりも大きくて状態の良い「スコッティ」は一体いくら?そんな途方もない恐竜が来ているのだ!
みどころその三は最新の解析技術について。LSFという最新の非破壊解析技術(LSFはLaser stimulated fluorescenceの略)で、高出力レーダーを化石に照射して、化石内部原子が反応して出す光を撮影して3次元で解析をするというもの。非破壊で化石の内部の詳細な解析が可能で、肉眼でも顕微鏡でも観察できなかったような微細構造を鮮やかに映し出す。この技術によって恐竜の排泄口の形状やへそ、体色、座りタコの存在まで顕微鏡写真のように鮮明な映像が撮れていることに驚いた。
会場出口にはアメリカのスミソニアン自然史博物館長のメッセージが。
「化石はこの惑星の記憶である。地球は化石で岩石に自叙伝を綴っているのだ」
我々人類は、すさまじい破壊者としてこの自叙伝に刻まれることだろう・・・そう言われているような強烈なメッセージに涙目になりながら会場を出る。
お土産売り場にゴジラと恐竜の比較考察のまじめでおかしいパネルがあった。
遅めのお昼をいただくことにして科学博物館のレストランへ。これが食べたかった「ジュラ紀ハンバーグプレート」! 恐竜の足跡ハンバーグ。1280円。ライスは活火山から溶岩が流れている様子を表している。
他にも見どころたくさんの恐竜博2023。6月18日までは東京、七夕からは大阪開催なので、機会があれば是非。ただしジュラ紀ハンバーグプレートがあるかどうかはわかりません。
2023年5月19日
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夕方から日本三大祭り「神田祭」が始まる直前の5月11日昼前、御茶ノ水で電車を降りて徒歩で明神様に向かう。
待ち合わせは山門前。祭りバージョンに模様替え。海外からの観光客も多い。
山門を潜ると右手に神輿がスタンバイ。今日の夕方から忙しくなるんだろうな。
本殿で参拝。今は空いているけど土日は混雑でえらいことになるらしい。嵐の前の静けさか。
本殿左側にはお土産売り場があるけど、おみくじ結び場がさすが東京。
神馬の「あかり」ちゃんがいた。あし毛の馬なので、成長するとだんだん白くなって大人になると白馬になるらしい。
ランチタイムが終わって友人と別れ、神田方面に散歩する。どこも御祭礼の飾りつけをして雰囲気を盛り上げている。
オフィスビルの入り口も。
郵便局も。
神田には料理屋の老舗が多い。こちらは天保年間から続く”あんこう鍋”の「いせ源」
私がどうしても行きたかったのが神田「藪蕎麦」。
社会人になりたての頃、この近辺を歩いていて偶然見つけたこの店。神田の老舗蕎麦屋なんだろうなぁ、美味しいんだろうなぁ。とにかく食べなきゃわかんねぇと突撃してみた。注文すると和服で帳場に座っている若女将が「せいろう〜いち〜ま〜い」という独特な伸ばし口調でオーダーを通していて、それだけでも伝統というものを感じたものだ。出てきた蕎麦は、甘いつゆに慣れた九州人からすれば何か別の食べ物みたいに感じた。落語で「蕎麦はつゆにどっぷり浸けちゃぁだめだ」というのを聞いたことがあるが、なるほどどっぷり浸けてはしょっぱいくらいだった。店を出る時にはゆっくりとした口調で「ありがとう存じます」と挨拶された。この一連の雰囲気が強く印象に残っている。
そんなことを思い出していると、さっきランチしたばかりなのに蕎麦が食べたくなって暖簾を潜った。
十年前に火事になって文化財クラスの貴重な建物は半焼したが、それを乗り越えて再開された。果たして女将のあの声は聴けるのだろうか。
カウンターで植え込みを眺めながら、思い出の「せいろう蕎麦」を待つ。店員さんがあの独特の口調でオーダーを通している。
蕎麦が来た。そうそう、これだったよね。
いただきます。なるほど変わってない、この味!こののど越し!この香り!
蕎麦湯をいただきお勘定に行こうとしたが伝票がない。ははぁ〜さては昔のスタイルにこだわってるんだな。ということは帳場に行けば女将がいるかも。
帳場には風格のある女将が。オーラがある。あの上品な女将だと確信して尋ねてみた。「女将さん、昭和57年頃に帳場にいらしたのは貴方ですか?」「はい。一緒に帳場に入っていた母が倒れて、私が一人で帳場にいた頃だと思います。もう八十になりました」と微笑まれた。
藪蕎麦が火事に遭ったというニュースは名古屋で聞いた。常連客の中には再建のためにと浄財を寄進した人もあったらしいが、私はそういう機会がなかった。せめて上京した時くらいは蕎麦を食べて応援したいと思う。
2023年5月12日
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初日の3日は天候にも恵まれ、大勢の参加者で賑わいました。申し込みや予約は不要。「化石が見てみたくなった」ら、「化石がほしくなった」ら、迷わず船でお越し下さい。
午前の部(10時~11:50)に参加するには、棚底港からだと
・「フェリーごしょうら」(8:10棚底港発→8:55分御所浦港着)
・「八りゅう丸」(9:10棚底港発→9:40御所浦港着
本渡港からだと「しいがる3」(8:30発→9:10御所浦港着)がお勧めです。
午後の部(午後2時〜3時50分)にご参加の方は
・棚底港13:00発→13:30御所浦港着の「八りゅう丸」
本渡港からだと午後の部の説明時間に5分ちょい遅れちゃいますが、
・本渡港13:20発→御所浦港14:05着の「しいがる3」でも大丈夫です。
御所浦にお泊りでない方は帰りの船の時刻にご注意ください。でも乗り遅れたら海上タクシーがあります(棚底港まで何人乗っても3500円)。
途中の嵐口港には鯉のぼりが元気に泳いでいます。
定期船で巡る御所浦は『非日常』の宝庫!フェリーだと視線が高くて景色が良い、他の船だと海面に近くて波の臨場感がある、などそれぞれにお楽しみください。
採石会場では学芸員から化石の見つけ方やコツ、ハンマーの使い方などの説明を受けます。上手に化石を見付けたり怪我をしないためにもちゃんと聞いておきましょう。
採石会場は昨年11月に石を掘り返しましたので、新しい化石が地表に出て、良い化石が見つかる確率が高くなりました。この日もアンモナイトの化石が11個見つかりました。
化石が思うように見つからない人には学芸員が車座になって指南します。学芸員愛をお感じ下さい!
5月3日はアンモナイトの化石11個の他、シダ植物の化石2個、巻貝の化石2個、サンゴの化石など、面白い発見が相次ぎました。特に学術的に貴重なものは博物館への寄贈をお願いしていますが、この日の寄贈は2件ありました。寄贈すると寄贈証明書(来年オープンする恐竜博物館の永年フリーパスになっています)がその場でもらえます。
帰りには御所浦港の鯉のぼりがお見送りしてくれます(来るときはお迎えしてくれたような・・・)。
いかがでしょう。化石教室は5月7日までです!早速行ってみましょう! 2023年5月3日
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4月1日からガイドつき『天草ぐるっと周遊バス』がコースをリニューアル。キリシタン館と切支丹墓地が午前中のコースに加わって、道の駅宮地岳かかしの里でお昼を食べ、午後コレジヨ館→崎津天主堂→資料館みなとや→ロザリオ館→大江天主堂と巡る一日コースになった。世界遺産関連名所を効率的に回ることができる。このコースに沿ってゴールデンウィーク中のお薦めポイントを紹介したい。車で訪問される方の参考にもなればうれしい。
最初の訪問先はキリシタン館。
5月1日から7日まで、国の重要文化財『天草四郎陣中旗』が公開される。年に4回各1週間しか公開されないので貴重な機会だ。キリシタン館は5月24日のNHK「歴史探偵」で取り上げられる予定だそうだ。
次は道の駅「宮地岳かかしの里」。こちらでは第9回かかし祭りが開催中。5月5日までとなっているのでお早めに。
四季折々の行事をテーマにして構成している。入口近くにある「かかしの家」は常設。昭和レトロな家具やテレビ、ラジオもある。
指名手配のかかしを捜して申し込めば、景品がもらえるゲームを実施している。売店入口の長机に参加要領が貼ってある。
次はコレジヨ館。こちらでは常設展の他に4月28日から8月30日まで新収蔵品展を開催中。入館料は普段と変わらないのでお得。
新収蔵品展。コレジヨ館の収蔵品が充実して行けば、華やかなりし天草の南蛮文化全盛期がもっとリアルに感じられることだろう。
コレジヨ館の次は崎津に向かう。
崎津ではGWの特別なイベントはない。しかし観光客は増えた。塀の十字の窓の中に天主堂が収まるような写真を狙ってみたが今回もイマイチうまく行かない・・・
きんつ市場ではヒオウギ貝の串焼きが200円で食べられる。一串に3個〜4個のヒオウギ貝がついていて、あらかじめ焼いたものをレンジで温め直してくれるのだが、その新鮮さに驚く。売り切れのことが多いので、見つけたらすぐ買って食べるべし!
最後はロザリオ館。こちらもGWの特別企画展はないが、修理に出ていた明治政府のキリスト教禁教の高札が修理を終えて戻っていた。
最後は大江天主堂。
連休と土日は教会前の吉井勇の歌碑の後ろでおばちゃんがこっぱ餅とか生搾りジュースとかを売っている。冷えたジュース100円とこっぱ餅一つ150円を頬張ると疲れが一気に取れる(ような気がする)。
もう一つイベントを紹介しておきたい。5月3日から7日まで、御所浦町の白亜紀資料館で「ゴールデンウィーク化石教室」がある。午前10時から11時50分までの午前の部と、14時から15時50分までの午後の部があるが、好きな時間に参加して構わない。学芸員と一緒に化石採集を体験できる。石ころの上を歩くので、動きやすい服装と靴を履いていけばハンマーなど必要な機材は無料で貸してもらえる。御所浦港から歩いて3分なので、車は棚底港のコイン駐車場(一日置いて100円)に置いてふらっと定期船に乗って行ってみよう!
次回のブログ更新は5月12日の予定です。 2023年5月1日
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心配された雨も良い方向に予報が外れた。参加者はおよそ150名。午前9時15分、史跡巡りコースとトレッキングコースとに分かれて出発。筆者は史跡巡りコースに同行。去年とは逆に左回り。コースにも変化をつけてある。出発してすぐ。右手に弥生時代の石棺遺跡と十五社宮、正面とんがっている山は天草第二の矢筈岳。絶好のハイキング日和。
金毘羅さんを巡る。小学生の頃よく遊んだ場所だ。
天神様と鈴木様のお宮を過ぎる。
代表的な石垣のお宅の前で石垣の説明を受ける。天草では有名な語り部のガイドさんが楽しく分かりやすく解説。「みつばちラジオ(地元FM放送)で声を聴いたことがあるけど、あなただったんですね!」という感動(?)の場面も。
お庭を横切らせていただき、隣にある現役の「こぐり」の説明(関連記事はこちら)を受けて棚底城跡へ向かう。こぐりのガイドさんからケーブルテレビのカメラマンに「これがどこまで続いているか奥はどうなっているか撮影してもらえればありがたいけどダメ?」と振られていた。真に受けたのか、中を撮影するカメラマン。
棚底城跡に到着。去年までは木に覆われていたが、南向き斜面の木が切られて開けている。
城跡に登る。土塁を壊したり変形させたりすることはご法度(文化庁)なので、階段を整備することもままならないみたい。
?郭に到着。学芸員から切岸や空堀の説明を聞きながら倉岳山を望む。
その上に東屋が出来ていた。柱の跡を手掛かりに復元図を作成、若干現代風な建物デザインにしてあるそうだ。説明パネルも整備されていた。
本丸を目指して歩く。本丸は上津浦の殿様も居城したことがある場所。ベトナム産の青花碗の破片も出土して、東南アジアとの接点を持っていたことや碁や茶の湯なども嗜まれていたことが分かっているそうだ。
下山道は舗装されていた。常緑樹は葉っぱが新しいのと替わる時期。積もった葉っぱで滑らないように。
地区の公民館の近所で出会った茶摘み風景。何十年ぶりかに見る風景・・・棚底らしく石垣が見えるのもいい!
浄土宗江岸寺と棚底諏訪神社を経て棚底港に。守り神えびす様の説明を聞いてラストスパート。ゴールまで残り300m。
行程は5キロに少し足りないくらいの距離だったが、説明を聞きながらの2時間は運動不足解消にはもってこい。中でも棚底城跡は着々と整備されて登りやすく見やすくなっていた!これからも自然との調和を図りながら当時の城主が見ていたであろう景色を復元して行くとのこと。時々散歩に訪れてみると、そのたびに変化があるかもしれない。
棚底城を支配していた上津浦氏はキリスト教を保護して南蛮寺(有明町の正覚寺の前身)の建設も許した豪族だった。ひょっとしてこの棚底の地にアルメイダ神父も布教にやって来たのではないだろうか。江戸期の長く厳しい弾圧と記録の抹殺によって国内には手掛かりがほとんどないが、ヨーロッパのどこかの文献・記録に「TANASOKO」の文字があるかもしれない。コレジヨが河浦にあったこともヨーロッパの文献で証明された(関連記事はこちら)訳だし、調べてみる価値はありそうだ。
散策が終わって、午後はさくらんぼの収穫。木全体に網をかけ、それでも隙間から侵入してくるヒヨドリを追っ払いながら防衛してきたさくらんぼ。去年は収穫の前日に食い尽くされた。その経験から今年は実が色づき始めてすぐに網掛けして防衛成功!
親戚にお裾分けしたらとても喜んでもらえた。 2023年4月28日
]]>木々に囲まれたお店に薪ストーブがあって、コロナ禍前はコーヒーと一緒にパンやピザをいただくことも出来たのですが、この3月をもって「さんぱーる」での販売だけとなりました。
このお店は2009年9月にオープンし、2013年5月にはTV朝日の『人生の楽園』でも取り上げられていました。当時東京に住んでいた私は番組のファンで、オンエアでこの放送を見ました。
天草に戻って来てからはちょくちょく立ち寄っていました。季節を感じる菓子パンも美味しくて「りんごのデニッシュ」が一番のお気に入りでした。よくおやつにいただきました。
オーナーはオープン当時55歳だったそうなので、そろそろ70歳を迎えるタイミングで一区切りつけられたのかもしれません。途中コロナ禍で楽園ではなかった時期もあったと思いますが、これまで素敵なお店を続けてくださりありがとうございました。これからもさんぱーるで買います。りんごのデニッシュも焼いていただけるとうれしいな。これからも次の「楽園」を頑張って下さいね!
2023年4月24日
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鹿児島県との県境に墨イカを釣りに行ったら、カンブリア紀の生き物「アノマロカリス」がかかった(関連記事はこちら)。
正体は「ウミエラ」の仲間だと思う。赤く見える尻尾の部分は海底に根のように生えていたのだろう。それにしてもアノマロカリスに似ている。もしそれが本当だったったら一躍世界中に世紀の大発見として名前が響き渡るだろうになぁ。
時代を現代に戻そう。上天草市松島町で見かけた『黄色いウィッグをつけた電柱』。
黄色い花なので、全国的に問題なっている葛(くず)ではなさそうだ。
葛はご存知のように電柱や太陽光発電所を覆いつくすマメ科の蔓で秋の七草のひとつ。根は葛粉(くずこ)、ツルは葛布(くずふ)として利用され、葛粉は葛根湯の原料にもなる。昔は里山で育てられて利用されてきたが、里山の土が根と一緒に運び出され盛り土などに使われるとそこで繁殖を始める。根での繁殖力が強くて刈り取っても効果が薄く、今や全国的に電柱や空き家や太陽光発電所などを覆いつくす迷惑植物となって『グリーンモンスター』と呼ばれている。アメリカでも猛威を振るっているそうだ。ボストンのフェンウェイパークの「グリーンモンスター」だったら可愛げがあるのだけど・・・
数日後花見に訪れたキリシタン館の前の桜。幹に鳥のシルエット。
天草ではよく見かける小型のキツツキ『コゲラ』。人間の生活圏の中でも平気に暮らす鳥で、親近感があるキツツキだ。桜の枯れ枝を熱心につついていた。あんなにつついて脳震盪を起こさないのが不思議。
3月下旬に最盛期を迎えあちこちで見られた天然記念物で絶滅危惧種のカンムリウミスズメ。4月に入ってからは見られる機会が減ってきた。例年より早い。ひょっとしたら今年は連休前にいなくなるかもしれない。
そんなカンムリウミスズメの珍しい場面に出会った。3羽で泳いでいたカンムリウミスズメの近くに流木が流れて来た。
しばらく目を離して釣りをしていたが気が付くと2羽に減っていた。
もう一羽は?あたりを見渡してもいない。さっきの流木があるだけ。潜水しているかもしれないので暫く待ってみたが浮いて来ない。まさか事故にでも遭ったんじゃないかと探していると流木の様子が何となくおかしい。釣りを中断して様子を見に船を近づけてみると・・・
流木の上に乗っかって”お疲れちゃん”モードで休んでいた。船に気付いて流木から下りてゆっくり逃げ始めた。事故じゃなかったんだ。良かった! と同時に「せっかく休憩してたのに邪魔してごめんね」という感じ・・・
いずれにしてもこんな至近距離で撮影できるなんてラッキー!
中国からやってきた黄色い厄介なお客さんが関東にまで飛来した日の天草。天草の黄色いお客さんピークは前日で、獅子島は姿そのものが見えなかった。翌日は姿が見えたが、横縞が入って獅子縞になっていた。
島ののどかなシルエットから視線を180°回すと黒毛和牛の放牧。え、天草で放牧?
牧歌的という言葉がよく合う。黄砂で洗濯はまだ外には干せないけど、こののどかさがいい! 2023年4月21日
]]>フェリーに乗ってデッキから鬼池港を見ると、カフェ”Propeller Plate”が正面に見える(写真中央の一階建ての白い建物:詳細はこちら)。
これからの季節は展望デッキがお薦めだが日焼けにはご用心。
陽射しが強い時や雨天時には客室も展望が良く快適。
島原側の口之津と鬼池から同時刻に出航する。航行時間が30分だから出航後15分で真横に来るはずだ。向こうから近づく天草行きフェリー。
14分あたりからカウントダウン開始。ちょうど左舷に来た時に時計を見ると、15分34秒。結構正確だ!
口之津港に入ってゆく。ここには国立海技学校があって、船の上で生徒が実習をしている。
着岸した。今の口之津港は新しく出来た白い発着場に移転している。向こうに昔のフェリー発着場の赤い桟橋が見える。
こちらが新しいフェリー発着場。
切符売り場は市役所の支庁も入っているきれいな建物にある。快適だ。
ここから崎津集落と同じく世界遺産の構成要素である原城跡に向かう。
駐車場から国道を渡ってすぐに看板が見えるが、あっけらかんとビニールハウスがあって畑が広がっている。
本丸跡を目指して歩く。左に玉ねぎ畑が広がっている。空にはヒバリがピーチク鳴きながら舞っている。
談合島は天草から見る姿と少し形が違う。
虎口を通って本丸に到着。ここに来て初めて十字架を見たような気がする。
本丸から天草丸方面を見る。
こののどかな風景を見ながらこの地で命を散らした人々に思いを馳せる。自然と『R.I.P.』(Requiescat In Pace:”安らかに眠り給え”の意味のラテン語)の文字が浮かんでくる・・・
次に日野江城跡に向かう。麓にセミナリヨ跡があった。天正遣欧少年使節団のうち伊藤マンショと中浦ジュリアンはローマから戻ってからここで教師をしていたという。
日野江城の三の丸から城下を眺める。
日野江城は有馬晴信の居城だった。切支丹大名の有馬氏の時代は仏教徒と切支丹の立場が逆で、お寺が打ち壊しにあったりした。ルイス・フロイスによれば由緒ある仏像であっても割られて薪にされたらしい・・・
最後に有馬キリシタン遺産記念館を訪れた。
ここでは島原の乱をメインとして関連資料の展示や解説を行っている。陰惨な弾圧に関しても敢えて人形を使ったりして表現している。仏教弾圧、切支丹弾圧と目まぐるしく歴史が移ろう様子も見て取れる。元々は領主松倉(天草においては寺沢)の悪政によって生きる望みを失った人々の反乱だったが、これが引き金となって切支丹に弾圧の矛先が向いてしまった。ユネスコではここの戦いが”隠れ切支丹”の始まりだと位置づけている。
天草と比べれば、本土から陸続きで幕府の鎮圧軍が、それから240年近く役人や密偵が直接やって来たこの地では”隠れ切支丹”の気配は消えているように感じた。一方天草は陸続きではないから、外から入る人の情報は伝わりやすい。さらに天草の西海岸で水平線を眺めていると、まるで向こうに中国大陸が見えるような気がする。頼山陽の漢詩「天草灘に泊す」の世界だ。「いざとなったらあちらに逃げればいい」と考えなくもない。この点も島原と違うところかもしれない。 2023年4月14日
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行って見るとなるほど海が近い。海は有明海。整然と並んだ黄色のハンカチがホームで風にそよいでいる。
ちょうど保線作業員が点検しているところだった。
黄色いハンカチにメッセージや願い事を書いて空いているところに掛ける。鉄道の人が時々外して神社に奉納して空きを作るらしい。新しいハンカチはガチャで売っている。筆記具もある。たまたま係の人が入れ替え作業をしていて、ガチャの前で何かの取材に答えていた。
ハンカチ色のディーゼルカーがやって来た。絵になるなぁ〜
汽車が通り過ぎたホームの看板が気になる。「本多木蝋鉱業所」(ほんだもくろうこうぎょしょ)。何で島原で「そうめん」でなく「ろうそく」なのか気になる。徒歩5分なら行ってみよう!
国道を横切って歩くこと約5分、『櫨の道資料館』が現れた。和ろうそくの材料は櫨(はぜ)の実だったな。木蝋は植物性、蜜蜂の巣から取る蜜蝋は動物性といったところかな。
暖簾をくぐると中は絵ろうそくがずらり!下の段には絵のないろうそくもある。
近づくときれいな絵を一つ一つ手で書いた労作だった。『しまばら和蝋燭』と書いてある。ろうそくの絵付けと言えば小川未明の「赤いろうそくと人魚」というお話を思い出してしまうが、赤いろうそくは置いてなかった。
向かい側にはフクロウ形のキャンドルライト『福蝋』や、なぜか椿油や菜種油。奥は絵付け体験会場になっている。
福蝋はこんな感じ。
島原のろうそく作りは1792年まで遡るそうだ。普賢岳の噴火と地震で眉山が山体崩壊して島原の町を呑み込み、海まで達して津波が発生、島原で1万人、対岸の肥後や天草でも5千人にのぼる犠牲者が出た『島原大変肥後迷惑』の後、復興のために島原藩が火山灰に強い櫨の木の植樹とろうそく作りを奨励したことがきっかけだという。
作業場を見せていただいた。大量の櫨の実。櫨の木の葉っぱが若い季節に肌が敏感な人が触ったりするとカブれたりするので子供の頃は近づかないようにしていた。実は触ってもカブレたりしない。種の皮と実の間の部分を蒸して絞るのだそうだ。
絞る機械も年季が入っている。3つ並んだうちの一番右は何と昭和12年製造。しかし筆者の父親より4つ年下だった!
溶かした蝋を手掛けして形を整えながらだんだん太くして行くので、断面にはバウムクーヘンのような模様が残る。天然由来の原料しか使っていないので職人さんの手に優しいそうだ。
和蝋燭の灯りは柔らかい。しかも風がなくてもやさしくゆらぐ(動画をご覧ください)。
2号と4号の無地のろうそくと、大三東駅のハンカチと海をモチーフにした10号の絵ろうそくを購入。
度重なる苦難にも負けずに守り抜いた伝統工芸。こんなところがあるなんて、島原あっぱれ!
大三東駅に戻ると、ちょうど島原港行きの下りが駅を出るところだった。
島原名物「地獄煮」でも食べて帰るとするか。 2023年4月7日
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倉岳町から獅子島方面に船で走っていたら、地元で大瀬戸と呼ばれる海峡に昨日までなかった養殖いかだがあった。近づいて見ると、いかだがお引っ越し中だった。
”微笑み返し”を連想してしまった。学生の頃ヒットしてたな・・・
でも近くで見ると潮の流れに逆らって引っ張る船は大変だ。重たいいかだを必死に曳いている。海の上の「ばんえい競馬」のようだ。ゆっくりゆっくり進んで行く。
今はお引っ越しシーズン。進学、就職、転勤といろいろな場面があるだろう。筆者も半世紀ほど昔、進学のために初めて親元を離れた。引っ越しを翌日に迎えた夕方、見納めとばかりに散歩した時見上げた空には花霞がかかっていた。引っ越して最初の休日、上通商店街ではポールマッカートニー&ウィングスのJetがずっと流れていた。
その7年後、就職のために上京した。寝台特急「みずほ」には高校時代の友達が見送りに来てくれた。3月31日に着いた東京はみぞれ。なごり雪だった。
その会社も6年前に退職し、こちら天草に引っ越してきたのもこの季節だった。いろいろあったなぁ・・・
思い出話になってしまった。話を季節に戻そう。
筆者の住む町は、東の方角に龍ヶ岳がそびえているので日の出は気象庁時刻より20分程遅い。花曇りの朝、雲の切れ間から顔を出した朝日。咲いている桜はさくらんぼの花。
その数日後、昨年4月に紹介した「オレンジライン」にある「ティーガーデン」に行ってみた(記事はこちら)。空が霞んでいて、正面に鎮座しているはずの島原半島が霞んでいて朧げにしか見えない。でもそれはそれでいい。妻が花粉症なので室内でコーヒーとたまごサンドをいただきながら霞む景色を眺めてくつろいだ。
週末はたまごサンドやカツサンドが置いてあるし、カレーもある。少しずつメニューを増やしている。花粉の飛散が終わったらテラスでコーヒーをいただこうと思っている。
3月最終日。天草の桜は満開。湖面に映る桜並木。鴨はほとんど北に帰って行った。
明日から新年度。入社式や転任の挨拶などあると思うけど皆頑張ってほしい。 2023年3月31日
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さて現代天草を代表する鉱物資源『天草陶石』。そもそも陶石とは「他の原料を混合することなく陶磁器が製造できる岩石」のことで、全国に採掘場がある。その中でも天草陶石は 1)チタンの含有量が非常に少ないので美しい白になる 2)比較的砕きやすい 3)成形しやすい ことから高級和洋食器を中心に高圧碍子などにも広く使用されている。
天草陶石を採掘する企業は現在3社ある。以前伺ってサンプルをご提供いただいた天草町高浜の上田陶石合資会社(記事はこちら)、苓北町と天草市の境の都呂々にある木山陶石鉱業所とノリタケカンパニーの子会社の共立マテリアル。今回は木山陶石鉱業所を訪ねた。
少しお話を伺いたくて工場付近で人を探しているとちょうど車が入って来た。降りて来られた方は会社のトップの方だった!
木山陶石さんは天草陶石の主な3鉱脈の一つ”海岸脈”から採鉱しているそうだ。採掘場から送られて洗浄された陶石がコンベヤから出て来ている。
近づいてみた。
掘り方の変遷についてお話を伺っていると、昔の坑道掘りの跡があるから見せて下さるという。「ちょっと待っとって」ということでしばらく待っていると、鎌とゴム長靴と懐中電灯を手に戻ってこられ、長靴は私に貸して下さった。何というご親切!
長靴に履き替え、木山さんの後をついてコンベヤの横を登る。鉱業所が一望できる。
昔は坑道掘りをして、陶石はトロッコで運び出していたそうだ。トロッコの軌道が残っている。
使われなくなったトロッコも残っている。
トロッコの軌道を曲げたりした工具も残っていた。何となくThe鉄腕DASH!のDASH島のトロッコやロープウェイを思い出した。
坑道の入り口の草を鎌で払っていただき中を覗く。ここにもトロッコが残っている。
なんと、懐中電灯で中を照らして写真を撮りやすくして下さった!
突然の訪問にもかかわらずこのように丁寧にご対応いただき、誠に恐縮だった。さらにサンプルもご提供いただいた。
右が特等石、左が4等石の縞陶石。いただいたサンプルはこのようにサンプルケースに入れて、周遊バスのガイドの際にお客様に直接触っていただいている。
近頃は白磁製造に必要な特等から2等までの高品位陶石の割合が減っているため、多くを占める4等石の利活用が進められている。鉄分さえ除去すれば特等並みの陶石になるそうで、塩酸を使った除去法が確立している。佐賀県窯業技術センターからは酸処理陶石を使った陶土の実用性を評価して高品位陶石を使った陶土と遜色なく使えるというリポートも出されている。
天草陶石がどうやって出来たのかの過程にはまだ謎が多い。それでも少しずつ解明が進んでいる。特に参考になったのが『天草陶石鉱床の特徴と鉱床生成に関する考察』(岩石鉱物科学45,62-71,2016)。興味のある方はネットから引っ張れるので読んでみてはいかが? 2023年3月24日
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道の駅不知火物産館を通り過ぎてすぐ、大きなソフトクリーム模型が目につく。工場か倉庫跡を利用したオープンカフェっぽい店になっていて看板には『金椛万十』と書いてある。
読みは「きんかまんじゅう」。駐車場も完備。第二駐車場まである。幟には「北海道産の希少な小豆と熊本産の栗を使っております」とある。
中はこんな感じ。
「全国発送いたします」。冷凍した金椛万十をクール便で送るサービスだそうだ。栗の餡と小豆餡が入った回転焼きと思えばいい。みんな結構な数買っている。指を四本立てて「4個ください」と言うと、これが常連さんの注文の仕方らしく「いつもありがとうございます」と言われた( ´艸`)。
あまりに美味しそうだったからソフトクリームも買った。栗と小豆のあんこをトッピングして550円。
トッピングのあんこを上から見る。このあんこはお饅頭の中に入っているのと同じみたい。お味は?美味しい!
金椛万十はこんな感じ。1個280円。
栗の餡と小豆餡が半分ずつ入っている感じ。これも美味い!
さらに266号線を天草方面へ。
ヤマア味噌の直売所があるが、『営業中』の旗の隣の看板が気になる。醤油ソフト150円。
これは試してみるしかない!坂道を登って行くと清潔感あふれる直売所がある。面白そうな商品、おいしそうな商品がズラリ。
とにかく醤油ソフト!
うっすらと醤油っぽい色がついているような気がする。食べると、いける!というか滑らかで美味しい!確かに醤油の旨味がほのかに感じられる。醤油の濃度とか種類とか、結構こだわったんだろうな。よい出来栄えで「お、値段以上」!
さらに天草方面へ進む。みかんの直売所は沢山あるが、この店のキャッチは印象に残る。
そう、ここは甘〜い道路なのだ。 2023年3月17日
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近所の畑が薄紫色に染まった。
レンゲ草かと思ったが、実はホトケノザ。春の七草に数えられているのは別のホトケノザ。紫色の花を咲かせるこちらのホトケノザは食用には向かないらしい。でもツツジやスイカズラのように、花のつけ根に蜜があるので吸うと甘く感じる。
ぼんやり霞んだ夕方の西の空、月が昇る前に宵の明星(金星)と木星(下の星)が並んでいた。
やがて東の空に月が昇る。朧月夜。
春になってもまだまだ教良木盆地の朝は冷える。ダム湖からは湯気が立ち昇り、湖面にわずかな羽音を残して鳥が飛ぶ。
防波堤の釣り人も軽装になってきた。名物ちゃんぽんで有名な大空食堂が見える。
せっかくだからちゃんぽんを食べて行こう。
このボリュームで850円。麵に辿り着く頃にはペースダウンしながらも完食。3日分の野菜を食べた気がする。
栖本町の漁港で高菜を潮洗いしている人を見かけた。昔は梅の花が散った頃、大潮の満潮時には浜のあちこちで高菜を洗う人を見かけたものだ。
久々に天草らしい春の風景を見たような気がする。やがて浜辺で高菜洗いをする人も見かけなくなるのだろうか。 2023年3月10日
]]>この記事で知ったのだが、日本の2020年の漁獲高は1984年のピーク時に比べて3分の1まで落ち込んでいるらしい。養殖は当時からほぼ横ばいで、天然魚を獲る漁業が大幅に減っているからだそうだ。昨年まで漁に出ておられた92歳のベテラン釣り師が「昔は”いを”(魚)の多かったばってん、今は減ってしもておらん」とおっしゃっていたが、データ通りなんだ・・・
一方世界の漁獲高は同じ期間で2.4倍に拡大しているそうだ。欧州では沖合の大規模養殖がけん引していて、しかも完全養殖が主流だそうだ。長崎大学の先生は「日本も地域や魚の種類に応じて沖合と陸上両輪で養殖を拡大すべきだ」と提言しておられる。食糧安保の観点からも必要なのかも・・・
さて筆者は、釣れた魚を港に持ち帰ったら網かごに入れて船の外につるして泳がせておく(写真下左のカゴ)。右の小さめのカゴの中にはエビが泳いでいる。
毎年10月から2月には、有明海で『オオダエビ』または『シラサエビ』という透き通ったエビが獲れる。筆者は漁師さんから生きたまま分けてもらって籠の中に泳がせておく。
しかし問題があった。魚は日が経てば痩せてくる。エビは毎日少しずつ死んでいく。どうしたものか。魚が痩せるのはエサを食べてないからなので2日以上泳がせる場合エビも一緒に入れておけばよい。これは養殖ではなくて畜養だな。
だけどエビはどうして死ぬのだろうか。水温かな?ストレスかな?死んで白くなったもの以外に殻だけ残ったやつもいる。最初はエビが脱皮した殻だと思っていたある日、テレビのThe鉄腕DASHでバナメイエビの養殖を紹介しているのを観た。意外なことにエビは甲殻類、特にカニが大好きだというのだ。エビはプランクトンを食べていると思い込んでいたが、ひょっとしてオオダエビは肉食で、お腹が空いて死んだ仲間を食べていたんじゃないか?
そう思って、スーパーでワタリガニを買って来て刻んで籠の中に入れてみた。
何と、早速カニをくわえて泳いで逃げる奴もいる。そうだったのか、エサが必要だったんだ!
翌日エビ籠の中を覗いてみると、きれいに殻だけになったカニの甲羅が転がっていた。エビは全員元気だ。これ以降脱皮らしき殻も見かけない。そのうちカニの在庫が切れ、代わりにバナメイエビを茹でてほぐしたものをあげてみたがこれもよく食べる。もう2か月経ってたがとても元気だ。でもこれ、養殖じゃなくて畜養かな?
魚を籠から上げる時、魚に食べられずに逃げおおせたエビは『サバイバル賞』として海に逃がすことにしている。 2023年3月3日
]]>企画展『せどばしの100年』の紹介。ハイヤ節の中にもある『本渡の徒歩渡り』。浅かったんだ。
次の写真は徒歩渡りの頃の本渡の街並み。
初代の瀬戸橋。旋回式の可動橋だ。志柿の金毘羅様あたりから眺めたものだと思われる。
次に私が知っている橋。二代目の瀬戸橋。跳開橋だ。真ん中が跳ねあがる。
あれ?橋を通過している船に見覚えがある。展示写真では船名が見えない。係の人に聞いたら「アーカイブズの原本を拡大してみれば分かるかもしれません」。行くしかない!
翌日に天草アーカイブズに出掛けた。瀬戸大橋の上島側、コメリ志柿店の裏にある。廃校になった瀬戸小学校の校舎だそうだ。
玄関に飾られた理念書と、天草陶石と思われるタイルで出来た額。
スリッパに履き替えて中に入る。初代の瀬戸橋。旋回橋で、橋桁が回転して船を通す方式の可動橋。帆船が通過している。
筆者の祖父は朝鮮総督府に勤務していて、終戦時に小学生だった母を連れて天草に引き揚げてきた時の船は写真のような帆船だったそうだ。その頃この橋が架かっていたということだから驚きだ。
二代目瀬戸橋の写真。この写真では船名が『第五長』まで読める。
イベント会場で見た写真と同じように見える。
船が通る時の信号待ちのようす。跳ね上がる前には信号が赤になって鉄道の踏切のようにカンカンという音を鳴らして遮断機が下りてきた。この写真に写っている船はイベント会場で見た船と形が同じだ!
係の人に船名が詠めないか聞いてみたところ、すぐに資料室に調べに行ってくれた。じっと待つこと10分。「画像が粗くて船名まで読めませんでしたが、”第五長”だと本渡=御所浦=水俣を結ぶ『第五長水丸』が天草の海運史に記録に残っています。」その船は軽自動車が3台積める船だとあった。漲水丸に間違いない!この船に軽自動車で水俣から乗ったことがある。当時は水俣=本渡を直接結んでいた。
子供の頃によく乗った姫戸丸の記録がないかも調べてもらったが残念ながらなかった。私が知る限り、姫戸丸の写真は熊本日日新聞のアーカイブズに一枚だけ進水式当時のものが残されている。木造二階建ての船で、3気筒の焼き玉エンジンを積んでいた。いわゆる「ポンポン船」だ。その後老朽化して「高砂丸」と言う鉄船に代わった。ポンポン船に馴染んだ耳にはディーゼルエンジンの軽やかな音が斬新で、グリーンの船体で軽やかなエンジン音を響かせて走る姿が大好きだった。この話題はこちらの記事の最終段落にも記載しているのでご一読あれ。
倉岳に住んでいた筆者には見慣れた看板。志柿町から見た瀬戸橋の風景。このあたりに今の瀬戸歩道橋がある。瀬戸歩道橋は昇開橋なので、初代、二代目と合わせて可動橋の主な方式を揃えたことになる。
他にも昭和13年の「天草時事新聞7周年記念号」についた『天草遊覧図』という地図があった。これは大変貴重なものだ。原稿は手書きで当時の炭鉱名まで記載されている。名所などの解説文は読んでいても面白い。
『せどばしの100年』展は4月7日(金)までの午前9時から午後4時30分まで。入場無料。土曜祝日と隔週の日曜日が休館。駐車場もあるので、是非一度訪れてみてはいかがだろう。2023年2月24日
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2月11日に開通記念のプレイベントが開かれた。プログラムに「漁船パレード」と「自衛隊航空ショー」とあったので、船と飛行機が好きな筆者は勇んで出掛けた。
10時に着いた会場はごった返している。食べ物屋、飲み物屋、お土産屋などが並んであちこちで行列が出来ている。食べ物を買っても座る席に空きがない。
会場には車海老釣りコーナーもあった。
制限時間は40秒。この子は一匹釣り上げてお持ち帰り!
開通前の新橋には、事前申し込みで橋を散歩するイベントがあって、参加している人々の姿が見える。
漁船パレードの時間が近づいてきた。会場近くの歩道にも鈴なりの人だかり。盛り上がってきた。
船が入って来た。何となく日本海海戦を思い起こすようなフォーメーション。先頭の旗艦が港内に入る。「おもかーじ!」
総勢20隻。歓声が上がる中、手を振りながら港内を回る。
港を2周してそれぞれの港に向けて帰って行く。ありがとう!
次に自衛隊機がやってくる。漁船パレードに参加した後、そのまま残って見学する船も。
みんなそわそわしてきた。宮崎の新田原基地からやって来るらしいから東の方から来るかな?
「来た!」 妻が先に見つけた。何と北の方に小さな点が2つ。よく見付けたなぁ・・・だんだん大きくなってきた。形が見えた。あれ? 練習機じゃないぞ!
やって来たのはFー15J。現在の自衛隊の主力戦闘機で最高速度はマッハ2.5。もっと低空飛行してくれればと思うが、騒音を意識してか、高度を保って2回会場上空を飛行。
「トップガン マーヴェリック」みたいに橋を潜って見せるのかと思ったけどまさかね!意外とあっさり帰って行った。30年ほど前に仕事で石川県の小松空港に行った時、恐らくスクランブルだと思うが、隣接する小松基地に配備されていたFー15Jが数機爆音を残して飛び立つところを見たことがある。その時の音のすさまじかった事!さすがにあの轟音だと一般市民は驚くからエコ運転したんだな・・・ま、仕方ないか。
ブルーインパルスを想像していた人も多かったみたいだが、あちらの使用機体はT-4練習機。きれいな機体だけど、迫力は戦闘機の方がある。ちなみに2014年5月31日、国立競技場の取り壊し前にブルーインパルスがさよなら展示飛行を行ったが、これはその前日に練習のためにブルーインパルスが渋谷に飛来した時の写真。やっぱ機体はF-15Jの方が迫力があるでしょ?
さて、イベント会場に古い本渡瀬戸の写真があった。ハイヤ音頭にある「戻りにゃ本渡瀬戸徒歩渡り」の実写である。
このブースは『天草市立アーカイブズ』の企画展「せどばしの100年」の案内写真6点だった。この1番の写真の時代はさすがに筆者も知らないが、他に知っている懐かしい風景写真が4点。これは行くしかない!とうことで次回レポートする。2023年2月17日
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